平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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松本恵子『松本恵子探偵小説選』(論創社 論創ミステリ叢書7)

松本恵子探偵小説選 (論創ミステリ叢書)

松本恵子探偵小説選 (論創ミステリ叢書)

米屋の隠居が殺害され、百両が盗まれた。大阪出身の出入りの小間物屋である彦兵衛が捕まり、最初は犯行を否定したが、拷問の結果自白。南町奉行大岡越前守によって皮剥獄門の極刑を受け、面皮をはがされた首が処刑場にさらされた。しかし彦兵衛の家族はそんな大それたことをするわけがないと思い、大阪から長男の彦三郎が江戸にやってくる。「皮剥獄門」。夫である松本泰が1921年に興した奎運社から出版された『秘密探偵雑誌』1923年8月号に、中野圭介名義で発表した創作処女作。いわゆる大岡政談の一つだが、原典があるとは思えないので創作だろう。「顔のない死体」トリック変形バージョンが珍しいところだが、大岡ものにする必要性は感じない。

1か月ぐらい付きまとっていた社内の男が会社を辞めた。ちょうどその時、女の元に真珠の首飾りが送られてきた。ちょうどそのころ、会社で使い込みが発生した。「真珠の首飾り」。中野圭介名義。当時の主流と思われるユーモア恋愛譚。一応どんでん返しはあるが、軽い。

地下鉄サムが日本に現れたと聞かされ、許婚の百合子を放って逮捕に努力する警視庁の石川探偵。そこへ盗まれた財布を持った乞食老爺が捕まるが。「白い手」。中野圭介名義。これまたユーモア恋愛譚の一つだが、これはやっぱり犯罪じゃないか。

タバコ屋の看板娘に惚れ、通う男だったが、ある日タバコ屋から菓子折りが届く。「万年筆の由来」。中野圭介名義。これもユーモアもの。タイトルの意味は、この主人公がなぜ万年筆をもらったのかというところにある。この主人公、よほど目つきが悪いのか。

資産家の飲んだくれの次男が列車に轢かれて死んだ。しかし偶然居合わせた画家の丈吉は、叢から拾った切断された手を見て不審を抱く。「手」。珍しく本格ミステリっぽい作品。もうちょっと長く書けば、もう少し面白くなったかもしれない。

缶詰の卸問屋の社長が殺害された。警察は先月理不尽な理由で解雇された男を逮捕するが、男の妻は冤罪を晴らす。「無生物がものを云ふとき」。現場の一つの手がかりから真犯人を探し出すものだが、これも枚数が短すぎ、結末がドタバタ。

赤い帽子をかぶったモダンガールの万里子は三人の青年に揶揄されるが。「赤い帽子」。掌編に近いユーモアもの。表に出る女性が作品に多いのは、作者の性格からだろうか。

戦争未亡人の女性が、息子と妹と資産家の伯母と食事中に毒を飲んで死亡した。「子供の日記」。母親の妹から送られた日記帳という形式で、9歳の子供の視点から描かれた作品。事件の意外な真相がわかる話だが、無邪気な子供の文章がかえって結末の恐ろしさを引き立たせている。本作品中ではベスト。

脅迫者を殺害したとして姉が逮捕されそうになるが、現場に呼ばれた妹は姉の冤罪を晴らす。「雨」。推理クイズにあるネタだが、この程度なら警察が分かれよと言いたい。

ロンドンに住む京子には許婚がいるが、通りかかった青年に惹かれる。「黒い靴」。『女人芸術』1929年3月号の「自伝的恋愛小説」特集に書かれたもので、乗合自動車に乗っているときにすれ違って挨拶したというくだりはロンドンで松本泰との間にあった出来事である。

あのナザレ人が、ユダヤ人の救い主となる預言者であるに違いない。イスカリオテのユダはそう信じ、必死にイエスに従うのだが、イエスはいつまでたっても戦場に出ようとしない。「ユダの嘆き」。ユダはなぜイエスを裏切ったのかを書いた作品。これもまた一つの解釈か。

世間で評判の盗賊「鉛筆ウィリー」を捕まえると意気込む、盗難保険会社シアトル支店の新入社員、ジミー。吝嗇家の節約狂、パーソン老人の家から「鉛筆ウィリー」によって銀器類が盗まれたと聞き、ジミーは家を訪れる。レイ・カミングス「節約狂」。些細な手がかりから事件の真相を導き出すというのはよくある話だが、最後のオチがうまい。カミングスはパルプ雑誌で活躍したSF作家。推理クイズファンなら、ある有名な推理クイズでおなじみ。

質屋を訪れたのは、実はかつての大泥棒の息子だった。質屋は実は贓品買いで、久しぶりに大泥棒と再会するが、大泥棒は息子が金庫破りもできない小盗人であることを嘆く。作者不詳「盗賊の後嗣」。中野圭介名義で発表されたもので、登場人物はいずれも日本名。雑誌には翻案と書かれていたそうだが、実は創作じゃないのだろうか。いわゆる皮肉なユーモアもの。

十一時を過ぎるのに、金満家で慈善家のマシュー氏はまだ書斎から出てこない。しかも鍵がかかっている。秘書のヘンリーが扉をぶち破って入ると、マシュー氏は後頭部を殴られ殺害されていた。フェンチ探偵が、密室殺人事件の謎を解く。ハリントン・ストロング「拭はれざるナイフ」。犯人は窓から出て外部から鍵をかけたとあるが、その方法は書かれていない。どういうこと? 扉の方は激しく閉めれば自然に錠が下りるようになっていると書かれているが、窓もそうだったということ? あまりにも片手落ちだなあ。ストロングはジョンストン・マッカレーの別名。

東京に出てきた長吉は、懐の財布を掏られない様に注意していたが、食堂で盗まれたことに気付く。先ほど葉巻をくれた酔っぱらいが犯人に違いない。そこへ酔っぱらいと一緒にいた紳士がやってくる。長吉は紳士を捕まえて警察に届け出るが、長吉が家へ運び込んだ酔っぱらいが死んでいた。「懐中物御用心」。人名、地名はすべて日本語だが、本文の末尾に「カール・クローソン探偵異聞より抄訳」と書かれている翻案。ただし、カール・クローソンがだれかは不明なので、創作の可能性があるのではないか。作者が書きそうなユーモアものだし。

評論・随筆篇は『紅はこべ』を紹介した「オルチー夫人の出世作に就いて」、シベリア鉄道経由でイギリスにわたる途上の体験を書いた「密輸入者と「毒鳥」」、松本泰への追悼文「あの朝」、馬場孤蝶への追悼文「思ひ出」、作者の夢体験を書いた「夢」、慶應義塾大学へ聴講したときの思い出を書いた「最初の女子聴講生」、松本泰の思い出を書いた「探偵雑誌を出していた頃の松本泰」、翻訳家、小説家の武林夢想庵の思い出を書いた「鼠が食べてしまった原稿」。

2004年5月、刊行。



作者の松本恵子は、1891年函館市生まれ。青山女学院英文専門科を卒業。知人の子女の家庭教師としてイギリスに滞在中、松本泰と結婚。1919年に帰国し、1921年ごろから始まった松本泰の出版活動と創作活動を支え、みずからも翻訳や創作を発表。中島三郎、中野圭介などの名義でも発表。1939年に松本泰が病没した後は児童文学や探偵小説の翻訳を中心に活動。探偵小説ではクリスティー作品が多い。児童文学では『四人姉妹』(若草物語)、『あしながおじさん』などで知られ、1974年に第16回日本児童文芸家協会児童文化功労賞を受賞している。1976年没。1925年に短編集『窓と窓』(奎運社)、1962年に随筆集『猫』(東峰出版)を出版している。



作者は翻訳家として有名らしいが、不勉強なので初めて知った。アンソロジーでも集録されていた記憶がない。日本最初の女性探偵小説作家は小流智尼(一条栄子)と言われているが、それより前に創作探偵小説を発表したのが松本恵子である。短編集『窓と窓』は少女小説とのことなので、探偵小説集は間違いなく初めて。とはいえ短いユーモアものが中心であり、作品が少ないことから翻訳や評論・随筆も収められている。

洒落た作品が多いが、イギリスにいたことも関連しているに違いない。おそらく余技だったのだろうが、一応オチのついた作品ばかりであり、読んでいて楽しい。とは言え読んだら忘れてしまいそうな長さの作品ばかりであり、強烈な印象を持つ探偵小説は無く、アンソロジーに採られないのも仕方がないところ。

はっきり言ってこのような作品集でもなければ一冊に編まれることは無かっただろうから、ある意味貴重な一冊。よほどのことが無かったら読む必要はないだろうが、読んでも損はしない。ただ、2500円を出すかどうかと言われたら悩むだろう。