平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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多岐川恭『落ちる』(創元推理文庫)

落ちる (創元推理文庫)

落ちる (創元推理文庫)

 

 旧<宝石>誌に投じた「みかん山」でデビューした多岐川恭は、白家太郎の筆名でスタートしたのち長編『氷柱』の刊行に際して多岐川恭名義となり、同年『濡れた心』で第四回江戸川乱歩賞を受賞、第一作品集『落ちる』を上梓するなど一気呵成に作家活動の開花期を迎えた感がある。自己破壊の衝動に苛まれる男を描く「落ちる」、江戸川乱歩が“云いしれぬ妙味”と評した「ある脅迫」、間然するところのない倒叙作品「笑う男」――第四十回直木賞を受賞した三編など、第一作品集を核に活動初期の秀作十編を収める。(粗筋紹介より引用)
 第40回(昭和33年度下半期) 直木賞を受賞した「落ちる」「ある脅迫」「笑う男」を含む7編を収録した短編集『落ちる』(河出書房新社,1958年11月)に、『宝石』短篇探偵小説懸賞佳作を受賞し、白家太郎名義で発表したデビュー作「みかん山」や「黒い木の葉」「二夜の女」を収録した短編集。2001年6月、刊行。

 

 自己破壊の本能を過度に具えたおれは、妻と主治医が浮気をしていると疑う。「落ちる」。
 大学生の私は、下宿の向かいに住む若い笹野夫婦とちょっとしたことから友達となった。しかし夫のほうは私に告白し、そして妻のほうは絞殺された。「猫」。
 九州にあるホテル兼下宿屋の望海荘の二階で、政治運動家の男が拳銃で頭を撃たれて死んだ。居合わせた人は皆下の応接間に居たので自殺と思われたが、凶器の拳銃は見つからず、そして2m程度離れて撃たれたものと判明した。「ヒーローの死」。
 臆病な中年万年銀行社員の男が宿直の夜、銀行強盗が入ってきた。この強盗の正体は意外な男だった。「ある脅迫」。
 今は金融業を営む男だったが、市役所時代、ある建築会社に利便を図り多額の金を得たことがあった。その時の事情を知るかつての部下は二号となったが、当時の上司の収賄が発覚し自殺。万が一を考え、男は二号を殺害する。関係は誰にも知られておらず、迷宮入りするかと思われたが、ある証拠のことを思い出し、男は事件現場に戻る。「笑う男」。<
 独り暮らしで資産家の老人は、若い甥夫婦を自宅に住まわせることにした。ところが甥夫婦はその本性を現し、川で転落死したように見せかけ、物置に監禁してしまう。「私は死んでいる」。
 結婚してから半年もたたないうちに、夫が無理心中を図り死亡、そして若妻はなんとか逃げ出して助かった。十歳以上離れている夫の嫉妬の果てに見えた事件だったが。「かわいい女」。
 太平洋戦争以前、みかん山の経営者の妹である早苗は、高等学校の寮に住む私たちにとっての憧れであった。私たちがみかん山でみかんを注文し早苗と話をしていると、早苗と付き合っているらしい学生が早苗の家にやってきた。皆に冷やかされた早苗は家に行くも、早苗は悲鳴を上げた。学生は殺害されており、家にいた兄が容疑者となった。「みかん山」。
 入院中の少女のもとへ通う少年。しかし少年の父親は、少女の母親の元恋人で、今も売れないアル中の画家だった。そのことを知った母親は二人の交際を禁じるが、二人は木の葉の合図を出し、親がいないときにひそかに会っていた。しかしある日、少女が殺害される。「黒い木の葉」。
 旅館へ療養に来た名和は、公衆浴場で出会った女と親しくなる。「二夜の女」。

 

 短編「落ちる」は読んでいたが、短編集『落ちる』は読んでいなかったな……と思って手に取った一冊。書かれている時代こそ昭和20~30年代だが、平成の今になっても古くささを感じさせない瑞々しさはさすがというべきか。「落ちる」における心理描写の巧みさと衝撃の結末、「ある脅迫」の奇妙な設定、「笑う男」の不安感と心の揺れ、「私は死んでいる」に漂う不思議なユーモア、「かわいい女」の意外な素顔。非常に読みごたえのある作品群だ。「猫」「ヒーローの死」は本格推理小説だが、逆に物足りない。多岐川恭らしさが足りないと言ってしまえばそれまでだが、作者の本領はやはり別のところにあったのだろう。
 処女作「みかん山」は若書きに近い短編。逆に同じく白家名義の「黒い木の葉」は少年時代の潔癖さと純情さが描かれており、実に興味深い。「二夜の女」は打って変わって抒情性あふれる佳品。男と女の機微が美しい。
 多岐川恭と言えば売れっ子になった後は量産作家になったイメージがあるものの、やはり初期作品は力が入っており、非常に読みごたえがある。それは短編でも同様であったことが再確認された一冊。もっと評価されてもいいだろう