平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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米澤穂信『可燃物』(文藝春秋)

 群馬県警利根警察署に、4人が遭難したと通報があった。現場となったスキー場に捜査員が赴くと、崖の下に転落した水野正と後東陵汰が発見された。水野は救急搬送されたが、後東は頸動脈を刺されて失血死していた。二人の回りの雪は踏み荒らされていなかった。動機のある水野が犯人なのか。しかし凶器は見つからず、水野は両手を含む全信骨折の状態だった。本当に殺人なのか、それとも事故なのか。「崖の下」。
 藤岡市で一人暮らしの金井みよ子(76)が襲われる強盗致傷事件が発生。捜査本部は類似前科のある者の中から容疑者を3人に絞った。そのうちの一人、田熊竜人(37)に監視がつけられたが、事件から1日半後の午前3時、交差点で田熊の運転するワゴン車と、水浦律治が運転する軽自動車がぶつかり、命に別状はないがともに救急搬送された。尾行していた刑事たちは、工事現場に視界を遮られ事故を見ていない。田熊が交通違反をしていれば、身柄を押さえることができる。複数の目撃者は、ワゴン車が赤信号で交差点に入ったと証言した。一方、田熊は相手が赤信号で交差点に入ってきたと主張した。「ねむけ」。
 春名山麓にあるきすげ回廊の草むらで、人間の腕を発見したとの通報があった。捜査陣が山狩りをすると、一部を除く人間の部位が発見。歯形から、10日前に息子の勝(29)から行方不明届が出ていた野末晴義(58)と判明。捜査で宮田村昭彦(44)から複数回に渡り借金をしていたことが判明。野末は6年前、谷川岳で遭難していた宮田村と娘の香苗を救助し、二人は恩を感じていた。目撃証言から宮田村の行方を捜し、逃亡していた宮田村を逮捕。宮田村はあっさりと殺人を自供した。「命の恩」。
 12月、太田市の住宅街でゴミ集積所への連続放火事件が発生。群馬県警は捜査本部を設置し、葛班が対応することになった。しかし犯行がぴたりと止まってしまった。捜査は行き詰まるも、葛は過去の放火事件を調べるうちにある事実に突き当たる。「可燃物」。
 傷害事件の犯人逮捕に葛班が携わった帰り、伊勢崎市のファミリーレストランで立てこもり事件が発生。近くにいた葛班が急行し、特殊係の到着まで情報の収集に当たった。調べていくうちに立てこもり犯が志多直人と判明。志多は息子と一緒にファミリーレストランに来ていたが、アレルギーの息子のためにナッツ類が入っていないパフェを頼んだのに、実際にはアーモンドがかかっていたことに激怒していたらしい。窓際に姿を現した志多は、拳銃を持っていた。しかしそれは、売り物のおもちゃの拳銃に似ていた。「本物か」。
 『オール讀物』2021年~2023年に掲載。2023年7月、刊行。

 米澤穂信が書きたかったと話していた警察小説。ただしチームで捜査に当たる従来の警察小説とは異なり、スタンダードに捜査を行いながらも、最後は部下の頭越しに事件を解決してしまう群馬県警本部の刑事部捜査第一課、(かつら)警部を主人公としている。葛警部については帯にある「彼は、葛をよい上司だとは思っていないが、葛の捜査能力を疑う者は一人もいない」という言葉もそうだが、作中で上司である捜査第一課の強行班捜査指導官、小田警視が「俺も上も、葛班の検挙率には一目置いている。だが、葛班はあまりにも、お前のワンマンチームじゃないかと疑ってもいる。お前の捜査手法は独特だ。どこまでもスタンダードに情報を集めながら、最後の一歩を一人で飛び越える。その手法はおそらく、学んで学び取れるものじゃない。お前も永遠に県警本部の班長ではいられん。下が力をつけてこなければ、県警の捜査力は落ちる」と語っている内容が一番ピンとくる。警察小説にありがちなプライベートの部分については一切触れられていないし、部下たちの心情などについても何も語られない。上司、特に捜査第一課長の新渡戸は葛のことをとことん嫌っているようだが、意に介していない。ちょっと目を引くのは、菓子パンとカフェオレばかりの食事ぐらいだろう。つまり、あくまで警察を舞台にしながら、純粋に事件と捜査と推理を主眼とした作品に仕上がっている。
 事件そのものは有りがちなものといっていいだろう。言ってしまえば、日常の事件とそれほど変わらない。しかし捜査によって浮かび上がるちょっとした違和感を、葛警部は見逃さない。捜査によって得られた証拠から、葛は推理する。そして真実を見出す。
 ものすごく地味な作品だとは思う。ドラマティックな展開など何もない。人間ドラマといえるものは、事件関係者の供述だけだ。だがそのわずか数行に、人生を揺るがすドラマがある。そして作者は最後にちょっとだけ、彼らのその後について触れる。それは作品に登場してくれた者たちへ、作者が贈る最後の優しさなのかもしれない。
 米澤穂信の新境地といえる作品集だろう。地味だが警察の捜査と推理の両方を楽しめる。今年のベスト候補である。個人的ベストは「本物か」。似たような設定は他にもあると思うが、展開の意外性をうまく使っている。