平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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奥泉光『死神の棋譜』(新潮社)

死神の棋譜

死神の棋譜

  • 作者:奥泉 光
  • 発売日: 2020/08/27
  • メディア: 単行本
 

  ――負けました。これをいうのは人生で何度目だろう。
 将棋に魅入られ、頂点を目指し、深みへ潜ってしまった男。消えた棋士の行方を追って、北海道の廃坑から地下神殿の対局室までの旅が始まる。
 芥川賞作家が描く傑作将棋エンタテインメント。(帯より引用)
 『小説新潮』2019年2月号~2020年1月号連載。2020年8月、単行本刊行。

 

 羽生善治名人に森内俊之九段が挑戦した第六九期名人戦第四局一日目の夜。三段リーグを突破できず、5年前に年齢制限で奨励会を退会した夏尾裕樹が、将棋会館の近くにある鳩森神社の将棋堂に刺さっていた弓矢に結ばれていた和紙に書かれていた詰将棋を会館に持ってきた。ただしその詰将棋は不詰めだった。コピーを棋士たちに見せ、オリジナルは夏尾が持って帰ったが、そのまま行方不明となる。そのコピーを見た元奨励会三段でライターの天谷敬太郎は、同じく元奨励会三段で観戦記者の北沢克弘に、22年前の退会の年に同じようなことがあったことを話す。その詰将棋を拾ったのは、三段リーグラス前の例会で、天谷と同門で17歳のホープだった十河樹生だった。十河はラス前で連敗し12勝4敗。天谷も連敗して11勝5敗となったが、他の昇段候補も敗れたため、最終日に連勝すれば自力で四段に、プロになることができた。そして三段リーグ最終日、一局目の相手は十河だったが、十河は現れず不戦勝。しかし逆にペースを崩した天谷は二局目に敗れ昇段できず、31歳の年齢制限で退会した。十河はそのまま退会した。1年半後、天谷は師匠佐治七段の同門である梁田八段より、昭和の初めのころに他の将棋団体に弓矢で挑戦状を送り付けた棋道会、別名魔道会の話を教えられる。手紙から十河が北海道空知郡にいることを知り、天谷が訪れると、そこはかつて棋道会を作った磐城家ならびに金剛龍神教の本拠である人がいなくなった鉱山町であった。天谷はそこで熱を出して十河に会えずに帰るが、熱の出した夜、天谷は十河に会って不詰めの詰将棋の解き方と、棋道会で修行している旨について話されたことを思い出す。
 夏尾が失踪し、北沢は色々と尋ねまわる。そのことを聞きつけた、夏尾の妹弟子となる玖村麻里奈女流二段と一緒に酒を飲んでいた夏尾の行きつけの居酒屋で、亭主から夏尾が北海道の旅行について話を聞いていたことを知り、北沢と玖村はかつて天谷が行った鉱山を訪れる。

 実名の棋士が最初から出てきて大丈夫かと思ったが、さすがに事件に絡んでいるのはみんな実在しない棋士ばかりだった(当たり前だ)。奥泉作品は久しぶり。まあはっきり言って苦手なので、敬遠していたというのが正直なところ。今回は将棋を取り扱っているというので、久しぶりに手に取ってみることにした。
 最強の棋士を輩出する集まりとかが絡む将棋ネタは結構あると思うのだが、令和のこの時代にそんな作品を読むとは思わなかった。古臭いネタかなと思ったけれど、そこから独自の世界に引きずり込む筆の力は、さすが作者といったところか。現実と幻想としか思えない世界が交錯するところは好きになれないのだが、読みにくいというわけではなく、作品世界に浸ることはできた。ただ、これは末端とはいえ将棋の経験が私にあったからじゃないかと思うのだが、実際のところどうだろう。盤上の魔力に魅入られる様が、将棋未経験の人にどこまで納得させることができたのか、逆にわからない。それとは逆に将棋の知識があると、「麒麟」とかの駒が出てきてかえって戸惑うかもしれない。それに、棋士の凄味はあまり伝わっていないね。
 将棋そのものの知識を知らなくても、本書を読んで楽しむことはできると思う。棋譜の中身はわからずとも、指し手のミスなどについてはわかるからだ。実際の詰将棋が出てくるわけでもない。最低限の将棋界の状況についてもさらっと述べられている。一方、実際に起きる失踪事件の真相については、一応の解決が示されているとはいえ、細部については触れられていないため、実際に可能なのかどうかはやや疑問が残るところ。この辺も、作者の計算なのだろうけれど。
 昔に比べ、奥泉作品も読みやすくなったな、というのが読み終わった時の感想。あまり引き込まれるものはなかったかな。それは好みの問題だったと思うけれど。
 作品とは別の感想になるが、実際の将棋世界の方が、よっぽどドラマ性があると思う。将棋の魔力と棋士の凄味が、本書からはあまり伝わらなかった。81の枡の上で、40枚の駒が舞わないと、将棋の本当の魅力は伝わらないのかもしれない。