平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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藤森益弘『春の砦』(文藝春秋)

春の砦

春の砦

広告会社のコピーライターであり、去年から役員も務める安芸浩之の携帯電話へ、3か月ほど前からかかってくる無言電話。しかし今日は、切ろうとしたときに「ひろゆきさん」という聞き覚えのない女の声で呼ばれ、安芸は驚く。安芸のことをそう呼ぶのは、かつて愛した従妹の宮部響子だけだった。しかし響子は、25年前の冬にパリで自殺していた。
同期入社のアートディレクターであり、常にコンビを組んで同じく役員となった古谷健次は、部下のコピーライター、大塚映子と不倫をしていた。結婚12年目でようやくできた子供を9か月で亡くした後、妻由梨子との性交渉は一度も無かった。

二人は役員会で、社長の娘婿である番場常務が、昨年発覚して前社長が辞任した代理店に絡む不正経理を続け、私腹を肥やしている点を追求しようとしていたが、古谷が映子との不倫を絡めた脅迫を番場から受けたため、その計画はとん挫していた。

新たに輸入されるコニャックの宣伝で、フランスの老俳優Mを起用し、パリ郊外で現地ロケを行う企画が採用された。そこへMのエージェントから連絡が入り、安芸も会うことに。そのエージェント、相田真弓は会議後のホテルのバーにも現われ、大学時代の友人である西澤信彦から安芸のことを聞いたと語る。彼女の真意はどこにあるのか。京都に行った安芸は、相田のことを西澤に尋ねる。その席で安芸は、大学時代の友人である富樫周平が癌で入院したことを聞いた。27年前、就職して離れ離れになり、淋しさを覚えた響子が富樫と付き合うようになってから、安芸は富樫と会ったことがなかった。

2003年、第20回サントリーミステリー大賞優秀作品賞。2003年6月刊行。



出版当時の作者は、広告制作会社のプロデューサー。つまり、自分がよく知る業界を舞台にして作品を仕上げたこととなる。小説こそ初めてだったようだが、かつては短歌結社の同人だったようで、三一書房の「現代短歌体系」が新人賞を募集した際に「弑春季」という作品で最終候補に残り、参考作品として掲載されているそうだ。1978年には歌集を自費出版している。本作品のタイトルは、かつて自分が詠み、冒頭に掲げられている短歌の中に入っている言葉である。主人公である安芸は、作者自身を投影した形になっているのかもしれない。

本作品は最後となった第20回に応募され、優秀作品賞を受賞している。この年は、なぜか読者賞である鈴木凛太朗『視えない大きな鳥』が出版されず、位置的にはその下となる本作が出版された。読者賞が出版されなかった理由は不明であるが、本作が優秀作品賞にとどまった理由は、本作を読めばわかる。はっきり言ってしまえば、本作はミステリでは無く、恋愛小説である。なぜ作者はサンミスに応募したのだろうか。一応謎といえるものが冒頭にこそあるものの、主人公がその謎を解き明かすために奔走するわけでも無く、ただ日常の流れの中でいつしか解決されているだけであるし。広告制作会社の実態の一部を読むことができた点は面白かったけれど。

中年のセンチメンタリズムをくすぐるような作品ではあるが、それだけといってしまえばそれだけ。ご都合主義とまでは言わないが、時が全てを解決してくれたというだけの作品である。そういう作品がお好みな読者にはいいだろうが、それほど勧めたくなるほどの作品でも無い。

その後の作者は、2004年にピアニスト市川修をモデルにした『モンク』という小説と、『本の話』に連載していた『ロードショーが待ち遠しい―早川龍雄氏の華麗な映画宣伝術』を出版している。多分本業が忙しくて、執筆に時間を取れないのだろう。