平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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芦辺拓『裁判員法廷』(文春文庫)

 ある日、あなたのもとに届いた一通の呼出状。それはあなたが裁判員候補者として選ばれたという通知だった。もちろん裁判など初めての体験。芒洋とした弁護士、森江春策と女性敏腕検事、菊園綾子が火花を散らす法廷で、あなたは無事評決を下すことができるのか。本邦初の“裁判員”ミステリー、ここに開廷。(粗筋紹介より引用)
 『オール讀物』2006年4月号掲載の「審理」(発表時「裁判員法廷二〇〇九」)、『J-novel』2006年10、11月号掲載の「評議」(発表時「評議―裁判員法廷二〇〇九」)に書下ろし「自白」を加え、2008年2月、文藝春秋より単行本刊行。2010年5月、文庫化。

 

 2009年に施行された裁判員裁判制度を取り扱った、本邦初の小説集とのこと。ただ「初めて」というのならば単なる早い者勝ちというだけのことではあるが、まだ施行される前に題材に取り入れたというのは、評価すべき点であろう。それも、裁判員裁判本格ミステリを書こうなんて、無茶なことをするなと思いながら読み始めた。
 「審理」はビル内での殺人事件で無罪を主張する被告人を間に、検事と弁護士が対決する。「評議」は重要な証人が来ないまま最終弁論を聞き、裁判員たちが討議する。「自白」は文芸ブローカーとして悪評の高い小説家の殺人事件における裁判員裁判で、被告人は認否で犯行を認めるも、弁護人は無罪を訴える。
 裁判員裁判の施行前だからとも思えないような突っ込みどころが色々あり、読んでいて戸惑った。
 「審理」では、森江が論告直前に新たな証人申請を行って認められている。さすがにこれは小説内で指摘されているが、現実には難しいだろう。それよりも不思議なのは、ある重要な事実を裁判員がぎりぎりまで気づいていない点である。さすがにこれは、検察側が初めに話しているだろう。
 「評議」ではある証人が出廷しないまま論告が行われるが、これはさすがに有り得ないのではないか。それに不思議なのは、論告求刑公判と評議と判決が同じ日に行われていることである。被告人が無罪を主張する裁判で、いや、殺人で起訴された裁判でこれは絶対に有り得ない。
 「自白」では裁判とは違うが、パトロールしている警察官が時間をチェックしないはずがないと思う。まあ、これは大した傷ではないが、最後の謎解きは偶然に頼る部分があってちょっと苦しい。
 ただ、裁判員裁判本格ミステリを書こうとした努力は認めるべき。普通だったら公判前整理手続きで争点が絞られてしまうから、ドラマティックな推理が出てくる余地を見つけるのは非常に難しい。これだけの仕掛けを盛り込むには、非常に苦労したことと思う。「あなた」と呼び掛ける形式も最初は戸惑ったが、読み終わっているとよく考えられていると思った。この手の法廷ものなら、裁判員裁判の制度の不備を突くような作品を書きそうなものだが、そんな在りがちな方へ向かわなかったのは嬉しかった。読んでみる価値のある一冊だと思う。
 「自白」に出てくる小説家のモデルは、たぶん作者の頭の中であるのだろうなあと思ってしまった。誰だか聞いてみたいものだ。