平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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水上勉『水上勉社会派短篇小説集 不知火海沿岸』(田畑書店)

 本書は水上勉が一九五九年から一九六二年の間に書いた短篇小説から八作品を選んで編んだものである。
 この時代の水上は『霧と影』(一九五九年)でいわば二度目のデビューを飾り、『海の牙』(一九六〇年)で日本探偵作家クラブ賞を、『雁の寺』(一九六一年)で直木賞を受賞、そして『飢餓海峡』(一九六三年)を発表するという充実期に入っていた。読書界は推理小説ブームを迎えており、その中で過去の『フライパンの歌』(一九四八年)のような私小説路線から松本清張と並ぶ社会派推理小説(当時の言い方だと「社会派」)の作家へと転じた水上は、一躍売れっ子作家となったのである。
 本書に収めたのは、この「社会派」時代に数多く発表された短篇小説である。『飢餓海峡』が代表的だが、水上の社会派推理小説には長編に傑作が多いことが知られている。しかし、こららと並行して矢継ぎ早に発表された短篇にも、現代から見て価値の高いものが多い。これらは多くが絶版でまたおそらく水上の意思で全集未収録であったが、そのまま埋もれさせるには惜しいと考え新編集での単行本化を企画した次第である。
 現代の推理小説はトリックの面白さ、謎解きの見事さを競ういわゆる「本格」の系譜に人気の中心があるようだが、これに対して「社会派」は犯罪者がその事件を起こした動機を重視するもので謎ときに主眼はない。さらに、当時の「社会派」は純文学と大衆文学の間を狙った「中間小説」の成立の中で、間口の広い芸術小説を目指した、いうなれば戦後の「純粋小説」(横光利一)運動であり、ルポルタージュなど小説以外の作品をも包含する呼称であった。とりわけその一翼を担った水上の「社会派」小説は、純粋なジャンル小説とは異なる物語性や問題意識に満ちている。そのような認識から、本書のタイトルには現在一般に用いられている「社会派推理小説」「社会派ミステリー」ではなく「社会派」のみを冠することとした。
(「刊行にあたって」より抜粋)

 

 不知火海沿岸の水潟市には奇病が発生し、市内の医師木田民平は治療にあたっていた。木田は患者の元へ東京の医者が奇病の研究に訪れたと知って声をかけ、東洋化成工業の工場排水が奇病の原因ではないかと意見を交わした。その夕刻、碁仲間の勢良富太郎警部補が木田を訪ね、東京から来た保険医が行方不明になっていると告げた。水上が『霧と影』(河出書房新社、1959年8月)での再出発後、自ら現地取材に赴いて書きあげた最初の作品である。その後大幅に加筆・書き直しが行われ、書き下ろし長篇推理小説として刊行された『海の牙』(河出書房新社、1960年4月)の原型。「不知火海沿岸」。
 松戸市矢切町に住む既製服外交員寺島伍助は、集金の途中、隣家の大工大貫長蔵のバイク事故死に遭遇する。追突したのは市川市真間山町の浦谷薬局の店員木内誠だったが、伍助はその刹那を見ていなかった。通夜の席上、長蔵の妻タネ子から、その日の長蔵の仕事場が浦谷薬局の横で、今日にかぎってカンナを取りに家に向かった途上の事故だったことが明かされる。本作の舞台となる町や主人公の職業、隣家の大工の交通事故死や葬儀はいずれも松戸で暮らした1957~1959年ごろの水上の実体験が反映されている。「真夏の葬列」。
 高利貸の柏君夫が、水天宮の貸しビルの二階で殺害された。ビルは階下の時計店主浜木廉が借金から柏に売り渡したもので、柏は入口として一つだけ穽をあけ板塀でビルを囲い、店子に転出を迫っていた。スーパーマーケットを作るという。鶴田刑事が柏に敵意を抱く浜木を疑い聴取するとあっけなく殺害を自供、しかし浜木のアリバイを証言する女が現れる。「黒い穽」。
 昭和31年11月20日、東洋編物工業の浅田米造は、戸田橋にはそもそも鋳物工場など存在しなかった。社長の娘十糸子と関係をもっていた香取は、自身の嫌疑を晴らし社長の過去をさぐるため、石川県輪島市に向かった。『霧と影』『野の墓標』『眼』など、水上のよく知る繊維業界の社長・重役の失踪の趣向は、本作でも使われている。「歯」。
 女子大生の神崎ますみは、大宮の会社重役の家へ家庭教師のため、週末泊りがけで行くのが習慣だったが、月曜になっても帰らない。仕事の詳細を誰も知らないため、心配した同宿の江原きよ子は大分の田舎に連絡し、父親が上京して世田谷署に捜索願を出したのは失踪から十日後だった。その後、遠く離れた山形の山中で若い娘の変死体が発見されていた。連作推理小説『蒼い実験室』第10話。「消えた週末」。
 既製服外交員瀬川隆吉は国電新小岩の駅前広場で、15年前に京都伏見の輜重隊の同僚だった来島鶴平と再会する。彼は入隊まもなく荒馬に顔を蹴られ片目となったのだった。一週間後、来島の注文してくれた特別仕立ての洋服を勤め先まで届けると、そこでかつての伏見の見習士官に出会う。そして、瀬川が来島に会ったのは、その日が最後となった。水上が1944年に召集され輜重隊に所属した体験をもとにしている。「片眼」。
 鬼落村の真福寺に和尚の妻きよ子をたずねて、たつ枝という女がやってくる。たつ枝はそのまま寺に居ついたが、あるとき夫の小林が、彼女をむかえに訪れる。その後、女の姿は消え、小林は女房が世話になったと、あるものの寄進を申し出る。推理作家である「私」のもとへたずねてきた菅原という男が話したのは、石川県の田舎の寺で起きた事件のことだった。「私」が「雁の寺」の作者として登場するメタ小説の構えを持った作品。水上文学で繰り返し描かれる禅宗の住職の妻帯・女性問題がモチーフとなっている。「真福寺の階段」。
 日米安全保障新条約の衆院通過をめぐり、岸首相退陣要求デモの白い渦で国会議事堂内外が阿鼻叫喚の混乱と化していた昭和35年6月5日の夜、千葉県H市の定時制高校で教鞭をとる酒巻誠は常磐線に乗って東京へ出た。教え子の卒業生・山本さち子のために借りた駒込のアパート晴光荘に向かったのだ。帰り際、酒巻はさち子の注いだウィスキーを飲みほした。再出発の時期にあたる松戸時代に交友を深めた川上宗薫をモデルとしたとみられる作品。「渦の片隅で」。
 他に吉村萬壱「序 薄明りの文学」と、石牟礼道子のエッセイ「前の世のための仮言葉――えぐれた風景の中から」を収録。
 2021年11月刊行。

 

 「社会派」の代表的作家であった水上勉の、全集・単行本未収録を含む社会派短編小説傑作選。
 前巻『無縁の花』の収録作品は主に作者の生まれ故郷である福井県、そして最初に奉公に出された京都を舞台であったが、本巻は「不知火海沿岸」を除くと都会を舞台にした作品が中心となっている。そのせいかどうかはわからないが、『無縁の花』に収録された短篇と比べると、推理小説と呼んでも十分差し支えない作品が多い。特に「歯」については、使い方を変えれば本格ミステリのトリックにも用いることが可能であろう。それでも、名も無き人たちに着目した水上の視線は変わらない。弱者への視線が水上文学の大きな特徴である。
 「不知火海沿岸」は『海の牙』の原型となった中編。中途半端な終わり方となっているので、確かにこれは長編化が必要だっただろう。
 個人的な好みは「歯」「真夏の葬列」。「歯」はラストがいい。「真夏の葬列」も急展開な終わり方が好み。唐突という意見もあるだろうが。
 水上勉のミステリ全てを読もうとは思わないけれど、たまに読む分には面白い。また何か、出してくれないかな。それも短編集で。