平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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多岐川恭『氷柱』(創元推理文庫)

《氷柱》紅塵を離れて雁立市の一角に三万坪の居を構える風変わりな男“氷柱”。ある日遭遇した少女の轢き逃げ事件を契機に、彼自身をも途惑わせる情熱の赴くまま、権勢を振りかざし私曲に走る街の巨悪を懲らすべく、策動が始まった――。
《おやじに捧げる葬送曲》元刑事の青砥五郎を「おやじさん」と慕い、入院先へ再々やってくる探偵社の調査員「おれ」こと白須健一。おやじさんの求めに応じ十億円の宝石強盗や宝石商殺しについて話していくと、次第に事件の全貌が見えてくる。意思疎通は時に困難を極めつつ、ベッド・ディテクティヴは永眠の日まで。(粗筋紹介より引用)
 『氷柱』は1958年6月、河出書房新社より書下ろし刊行。『おやじに捧げる葬送曲』は1984年11月、講談社ノベルスより書下ろし刊行。本書は2001年2月、刊行。

 

 『氷柱』は多岐川恭の第一長編。河出書房が1956年、『探偵小説名作全集』の別巻として書下ろし公募したときの次席入選作品である。この時の第一席入選作品は仁木悦子『猫は知っていた』である。しかし河出書房が1957年に倒産したため、出版されることはなかった。『猫は知っていた』は江戸川乱歩賞に回され、1957年に第3回江戸川乱歩賞を受賞する。本書は1958年に再建された河出書房新社より刊行された。同年、『濡れた心』で第4回江戸川乱歩賞を受賞するのも、作者の実力を示したものであろう。
 感じの冷たい男という意味で「氷柱」とあだ名される主人公が、少女の轢き逃げ事件を発端に、街の巨悪を懲らすために立ち上がるのだが、単純なクライムストーリーかと思いきや、最後まで仕掛けが施されていることに感心。技巧派の片鱗がデビューのころからうかがえる。ただ、結末には賛否両論がありそう。これが次席止まりだった理由だろうか。読者としては主人公が冷たくても、中身はもう少し熱いものが欲しかった。
 『おやじに捧げる葬送曲』は江戸川乱歩賞が30回を数えた記念として、講談社ノベルスから出版された乱歩賞作家のオール書き下ろし長編企画「乱歩賞SPECIAL」の一冊。しばらく時代小説が中心だった多岐川恭が、久しぶりにミステリに戻ってきた全力投入作品ということで結構騒がれていたと思うのだが、解説の川出正樹によると、「当時ほとんど話題になることもなく」とある。新保博久戸川昌子『火の接吻』とともに協会賞候補に挙げていた記憶があるのだが、違っただろうか。この乱歩賞SPECIAL、他にも『チョコレートゲーム』『ダビデの星の暗号』『倫敦暗殺塔』といった力作があった。
 見舞客の「おれ」が、ベッドに寝ていて余命わずかな「おやじさん」に宝石強盗事件や宝石商殺人の話をするうちに、「おやじさん」の「推理」によって事件の全貌が徐々に明らかになるという、究極のベッド・ディテクディヴミステリである。「おやじさん」はもうほとんど会話ができないこともあり、「おれ」の一人称ですべての話が進んでいく内容になっている。この見舞客の「おれ」が全てを語っているわけではない、というところにミソがあり、全容が複雑になっている。これだけのベテランになっても、新しいものを生み出そうとする執念には恐れ入る。一人で語る形式になっていることもあり、やや間延びしてしまったところがあるのは否定できないが、最後まで読み通すと作者の狙いのすべてが明らかになり、驚くこと間違いなし。まあもっと驚いたのは、この作品が本書に収められるまで文庫化されていなかったということなのだが。
 出版社があえて第一長編と最晩年の長編をカップリングしたのは、さすがというべきか。チャレンジし続けた作者を知るのにふさわしい一冊となった。