平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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小島和宏『W☆ING流れ星伝説 星屑たちのプロレス純情青春録』(双葉社)

  1991年8月7日、後楽園ホール。のちにプロレス史にその名を刻むインディー団体、「世界格闘技連合 W☆ING」がTAKE-OFF(離陸)した。だが、わずか3シリーズをもって団体は分裂。茨城清志は新たな団体、「W☆INGプロモーション」を設立へと動く。大半のスタッフ、選手と共に同年12月10日、「SKY HIGH AGAIN」を後楽園ホールで開催する。資金は持ち出し、リングは全日本女子プロレスから10万円で借りるなど、“ないない尽くし”の再旗揚げ戦。茨城は破格のギャラを払ってミル・マスカラスを招聘。満員にはならなかったものの、なんとか再スタートを切ることに成功した。
 W☆INGのリングに集まった男たちは、誰もが世間的には無名だった。メジャー団体の選手のようなめぐまれた体格や身体能力がはなかった。だが、プロレスに憧れ、愛する気持ちだけは誰にも負けていない。それは、団体の運営を担うフロントの男たちも同様だった。どうしたら、リングで輝けるのか。どうしたら、世間にW☆INGを知ってもらえるのか。その煩悶の中、男たちは汗と血と涙を流しながら、きらめきを求めて過激なデスマッチへと身を投じていく。夜空に一瞬、輝く流れ星のごとく――。
 齋藤彰俊松永光弘金村ゆきひろ、菊澤光信(元W☆ING練習生)、茨城清志元代表、大宝拓治元リングアナウンサー、畑山和寛元レフェリー、ロッシー小川(当時、全日本女子プロレス広報部長)他。当事者たちが語る、W☆INGの立ち上げから、崩壊に至るまでの2年7か月。給料さえほとんど出ない中、男たちはなぜ血を流し、その闘いに観客は熱狂したのか。当時、週刊プロレスの担当記者としてW☆INGを追い続けた小島和宏記者が描き出す、「世界で最も過激な団体」30年目の真実。(粗筋紹介より引用)
 2021年8月、書下ろし刊行。本当はW★INGと星は黒く塗られているのだが、本の中では頁が黒くなってしまうと、あえて☆を使っている。

 

 プロレス界から姿を消した元リングアナウンサー、スタッフの大宝拓治が25年ぶりくらいに小島和宏に電話をかけたところから本書は始まる。FMWから分かれたスタッフたちが1991年8月7日、後楽園ホールで旗揚げした世界格闘技連合W★ING。経営不振、路線対立などからわずか3シリーズで分裂。社長だった大迫和義(元FMW社長)は、茨城清志と大宝拓治を追放し、川並政嗣レフェリーと「世界格闘技連合WMA」を設立。しかしブッカーのビクター・キニョネスやレスラーのほとんどは茨城清志と大宝拓治が立ち上げたW★INGプロモーションに付いたため、WMAは旗揚げ戦すら行うことができず崩壊。W★INGプロモーションは12月10日に再旗揚げし、その後デスマッチ路線に進んで「世界で最も危険な団体」と言われるようになる。1994年3月13日を最後に、わずか2年3か月の寿命であった。それでも一部のプロレスファンにとっては、強い印象を与えた団体であることは間違いない。
 当事者たちの証言を読んでみて、ビクター・キニョネスや外国人レスラーを除くと、言い方は悪いが、プロレスも経営も素人集団の集まりだったんだなと思わせる。本当に行き当たりばったり。それがたまたまうまく回った頃はよかったが、一つ回らなくなると負の連鎖がどんどん重なっていく状態。売り興行で全然金をもらえないって、どういうやり取りをしていたのだろうかと思ってしまう。メインスタッフのほとんどが給料をもらっていないとか、いったいどういうことと聞きたい。それでも所属レスラーも含めて、好きだったからできたのだろうと思ってしまう。松永光弘が、『W★ING崩壊のA級戦犯松永光弘だ! 』と自分で言っているけれど、松永が悪いとは思えないなあ。後楽園ホールのバルコニー席からのダイブとか、五寸釘デスマッチで本当に五寸釘に落ちてしまうとか、体を張ってW★INGを支えたのは松永だったんだし。
 ビクター・キニョネス、ミスター・ポーゴ木村浩一郎保坂秀樹などすでに亡くなった人もいるし、徳田光輝や非道など表に出なくなった人もいる。実は違うぞと言いたい人もいるだろう。だが、これだけの主要人物からの証言を集めた本書は、まさにW★INGの終焉にふさわしい一冊だと思う。