平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

漂泊旦那の日記です。本の感想とサイト更新情報が中心です。偶に雑談など。

奥田英朗『オリンピックの身代金』(角川書店)

オリンピックの身代金

オリンピックの身代金

昭和39年夏。10月に開催されるオリンピックに向け、世界に冠たる大都市に変貌を遂げつつある首都・東京。この戦後最大のイベントの成功を望まない国民は誰一人としていない。そんな機運が高まるなか、警察を狙った爆破事件が発生。同時に「東京オリンピックを妨害する」という脅迫状が当局に届けられた! しかし、この事件は国民に知らされることがなかった。警視庁の刑事たちが極秘裏に事件を追うと、一人の東大生の存在が捜査線上に浮かぶ……。(帯より引用)

野性時代』2006年7月号〜2008年10月号掲載作品を加筆・修正し2008年11月に刊行。2009年、第43回吉川英治文学賞受賞作。



奥田英朗が久しぶりに執筆した本格長編社会派サスペンス。昭和39年(ここは西暦より和暦で書くべきだろう)の東京オリンピックを舞台にしている。作者は文献や映像など多くの資料に当たっている。また元警視庁捜査一課課長・田宮榮一氏へインタビューして当時の警察組織図、捜査方法、警備体制を取材するとともに、当時の警察官や婦人警官にも現場の雰囲気を取材している。舞台となる東京国立競技場も、日本スポーツ振興会の協力を得て実地取材。また当日の天候なども具体的に調査して記載している。作者のこだわりが、昭和という時代を、東京という背景を、オリンピックという世界的イベントを、リアリスティックに描写している。

当然のことであるが、ここで書かれた事件はフィクションである。しかし、作者の徹底したこだわりが、歴史の表舞台に出てこなかった(とされた)事件とストーリーにリアリティと緊張感を与えている。もちろん実際の歴史で、東京オリンピックは無事に開催され、そして終了している。この東京オリンピックの妨害が成功しないことは読者にもわかっている。それでいて、この緊張感は何だろう。作者の意気込みと情熱が、この作品に迫力を与えている。

東大でマルクス主義を勉強していた秋田の寒村出身である優秀な大学院生島崎国男が、日雇いの出稼ぎ人夫だった兄が命を落としたことを発端とし、夏休みの期間を兄と同じ飯場でアルバイトをしていく内に、社会の不平等さと理不尽さ、東京への一極集中などに怒りを感じ、その矛先をオリンピックに向ける。島崎、そして事件を捜査する警視庁刑事部捜査一課五係の落合昌夫刑事の視点で主に話は進み、途中で狂言回し的な存在でもあるテレビマンで島崎と同窓である須賀正の視点が入り込む。それぞれの時間軸が少しずつずれているところが、本事件の背景と捜査を対比させる形で浮き彫りにし、島崎のたくらみが成功するかどうかというサスペンス感を盛り上げている。不思議な因縁で協力することになるスリの村田とか、キザで飄々としているくせになんだかんだ言って有能な仁井刑事なんかはもっと描いて欲しかったところ。ストーリーを全面に押し出した分、登場人物の心理描写がもうちょっと欲しかった。

島崎の発想がどことなく新左翼に似通っているかなあ、などと思っていたら、本当に新左翼が出てきたところは笑ってしまった。作中での批判には納得。とはいえ、島崎にヒロポンを打たせたのはちょっと残念。落合刑事も似たような印象を持っていたが、やっぱりここはヒロポンなどに逃げず、自らの強靱な意志を持った人間としての行動をもっているように描いてほしかったところ。ここだけが残念だった。

奥田にはもっとミステリ作品を書いてほしい。そう思わせる一冊だった。この五係のメンバーだけで、もう一冊書いて欲しい。個性的な刑事がそろっているし、落合の家族風景ももっと読みたいところだ。これだけで終わるには惜しい。