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長田鬼門『死刑のすすめ―積極的死刑拡大論』(中央公論事業出版)

死刑のすすめ―積極的死刑拡大論

死刑のすすめ―積極的死刑拡大論

本書の題名は、「死刑のすすめ」としたが、本書では、互いにその意見が対立する死刑廃止論者たちと死刑存続論者たちの何れが正しいかを検証する。本書では、死刑実施の是非とともに、刑一般の軽重も論じられる。というのは、死刑廃止論者と死刑存続論者との対決は、刑一般をより軽くしてほしいと願う人々と刑一般をより重くしてほしいと願う人々の対決であると考えるからである。死刑廃止は、刑一般を軽くしたときに生ずる当然の帰結と考える。

前提として、この書は被害者サイドに全く咎が認められないケースのみを扱う。例として、強盗殺人事件、誘拐殺人事件、婦女暴行殺人事件、保険金殺人事件、スリ、痴漢行為etc。この前提は、勿論刑の軽重を論じやすくするためである。被害者にも若干の咎が認められ、被害者がいささかでもその報いを受けたのであれば、犯人の刑の確定には、被害者の咎の見積もりが必要になる。

また本書では、被告の有罪性が疑い得ないケースのみを扱う。過去に警察の見込み捜査によって、冤罪事件が少なからず発生した。死んでから無罪が確定したものも存在する。勿論真実のところはよく分からないが、警察の捜査に問題があったことは確かである。本書では、初めからその有罪性について、全く疑い得ない犯人がこの世に存在すると仮定して、議論がすすめられる。勿論疑おうと思えば何でも疑えるが、しかしそれではデカルトの哲学の世界に入ってしまうのである。(「まえがき」より引用)



作者の長田鬼門という名前は初めて見た。著者紹介もないし、自費出版を取り扱う中央公論事業出版より発売されていることからすると、多分一般人だろう。別に学者でなければ死刑論を語ってはいけないといういうつもりはないので、そこは間違えないでほしい。

書かれている内容なのだが、これがどうもまとまりのないものなので困ってしまう。「死刑廃止論者たちと死刑存続論者たちの何れが正しいかを検証」するという割には、肝心のその論者たちの意見そのものが取り上げられていない。論の検証というのに、その論がどこから引用されているのか、などといった初歩的なことがなされていない。常に「死刑廃止論者は〜」「人権団体は〜」「弁護士は〜」「犯人は〜」の繰り返しだけであり、誰が、いつ、どこで、何を言ったのか、という当たり前のことに一切触れられていないので、書いてある内容に説得力が欠ける。

書いてあることは、“論”と仰々しく銘打たれるほどのことはない。ただ、統計などで賛成する人たちが死刑に対して考えることは、何も難しい論を必要とするわけではない。「人を殺した人は死刑になるべきだ」「何でこんな残酷なことをした犯人が死刑にならないんだ」という意識ぐらいしか持ち合わせていない人もいるだろう。しかしそれは、ごく当たり前の感想ともいえる。「人を殺してはいけない。だから、人を殺した人は、死刑になって当然」。この単純な論法を覆すのは、容易なことではないはず。

例えばオウム真理教事件を考えれば簡単だ。「あれだけ悪いことをしたから、サリンを撒けと指示をしたから、麻原は死刑になって当然だ」。これは、日本国民の多くが持ちあわせている意見だと思う。死刑廃止論者や弁護士などが「麻原を死刑にする前に、なぜオウム真理教が生まれたか、なぜ頭脳明晰な人々が彼に従ったかを考えるべき」「麻原を死刑にしたら、事件の真相が闇に消える」などと“正論”を口に出したとしても、「悪いことをした」事実が消えるわけではない。単純明快な意識を覆すのは、とても難しい。

これを一部の“人権論者”は「日本人は人権意識を持ち合わせていない」と非難するのだが、これは単に自らの意見が通らないことを別の理由に置き換え、自らが優越感を持つための手段としているに過ぎない。はっきり言ってしまえば、彼らは自らの意見が通らない人物を差別しているのである。

この中で作者は、死刑判決を増やすべき、少年犯罪者は実名をさらすべき、判断能力に劣るという被告は刑を重くすべき、薬物殺人者は全て死刑、児童虐待殺人者の刑を重くしろ、被害者遺族の報復は正当な権利、などと死刑廃止論者、人権論者を徹底的に叩いている。
いずれにしても、研究者でない人物が書いたからこそ書くことができた、かなり過激な論法である。この挑戦に、死刑廃止論者は応えることができるであろうか。