平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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辺見庸『愛と痛み』(毎日新聞社)

愛と痛み 死刑をめぐって

愛と痛み 死刑をめぐって

2008年4月5日、「死刑廃止国家条約の批准を求めるフォーラム90」主催による東京「九段会館」でおこなわれた辺見庸講演会「死刑と日常―閾の声と想像の射程」を改題し、講演原稿を大幅に修正、補充したものである。そのせいか117ページしかない薄い本であるし、1ページあたりの字数も少ない。普通の枠組みにしたら、本にすらならなかったであろうという分量である。それはともかく、漢字で書くところが多い部分も平仮名で書いているのは、この人の特徴なのだろうか。読みづらい。

私は辺見庸という人物が作家であるということしか知らないので、どのような思想を持っているかを全く知らない。この本1冊から受ける印象は、自分に都合のよいことを愛という言葉に置き換えているだけにしか見えないし、自分が受け入れられない「世間」を糾弾し続けているだけのようにしか見えないのだが、見る人が見たら違うんだろう、きっと。私にはこの人が理屈もなしに気にくわないことを責めているだけにしか見えないし、その延長上に「死刑」が存在しているとしか思えない。

外野席からただ「死刑! 死刑!」と騒ぐ人たち(私を含む)を嘆くのは別にいい(注:騒ぐのが悪いとは私は言っていない)けれど、死刑制度を知った上で死刑制度に賛成している人や被害者遺族で死刑を求める人たちも同列に見ている、というか区別を全くしていない時点で、この人は視野が狭いと思う。この人のファンは、一貫していることをいっているわけだから何事も受け入れるんだろうけれど。

「テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさ」と自分が気に入らないことをこういう風に決めつけているような人が、愛を語るのは間違っていると思う。結局は都合の悪いことを全て差別、区別しているだけ。自らの好き嫌い、思想にあわないことは全て間違い。こういう人が愛を語って死刑反対を語ったって、何の説得力もない。愛を語るのなら、世間も含めてまず全てを受け入れろって言いたい。そこにあるのは、ただの好き嫌いだけである。



「刑務官たちの顔が今にも泣き出しそうに見えたのは錯覚でしょうか」そりゃ錯覚だよ、自分の思想に凝り固まっているからそう見えるだけ。

「私たちは知っているはずです。死刑は、刑事事件としての殺人とは全くちがうことを」そう、知っています。死刑は、取り返しのつかない事件を起こした犯人に対する究極の刑です。死刑は刑事事件の殺人とは全く違います。

「私がいいつのっているのは、被害者と対置しての死刑囚のことではない」被害者がいるから死刑囚がいるんだよ。都合の悪いことは無視ですか、全く。

「この国は世論の大勢、すなわち日本の世間を後ろ盾にしてEU27ヶ国の理念を足蹴にしている」いや、日本が日本の理念を持って当然でしょう。日本は民主国家ですから、民主的に決められたことを守っているに過ぎないんですよ。例えそれが死刑制度だろうと。

「なぜ犬だと泣けるのか」それは犬が理不尽に殺されたからです。死刑囚は自らの罪で死ぬのですから、理不尽ではありません(冤罪の場合は除きます)。



ごめん、ツッコミどころいっぱいあって書くのに疲れます。

この本を読んでちょっとだけ同感したのは、死刑廃止を謳っているECの国々が戦争という名の下に殺人を犯していることの矛盾を突きつけている部分ぐらいかな。確かにそこは単純すぎるぐらい論理的な展開だ。



元々は講演原稿なので、実際に耳にしていたらもう少し印象が違ったのかもしれない。どちらにしても、ただの決めつけといってもよい死刑廃止論、いやもう「論」じゃなくて、ただ死刑廃止を叫んでいるだけ。論じるような中身のあるものではないし、価値もない。ただ、辺見庸という芥川賞を取った作家、講談社ノンフィクション賞を取ったジャーナリストが、自分は気に入らないから死刑廃止を叫んでますよ、と言っているだけの本である。