平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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角田喜久雄『霊魂の足 加賀美捜査一課長全短篇』(創元推理文庫)

 上野駅地階の食堂で、眼鏡の男が隣の客の古トランクをすり替える現場を目撃した加賀美は、男を尾行して空襲の焼け跡と闇市が混在する街へ。男の奇妙な行動に隠された動機とは……「怪奇を抱く壁」。暗闇の中、被害者はいかにして射殺されたのか。地方出張中に遭遇した事件「霊魂の足」ほか、昭和二十一年、敗戦直後の混乱した世相を背景に発生した事件を、冷徹な観察と推理で解決していく加賀美敬介警視庁捜査一課長の活躍を描き、戦後探偵小説の幕開けを飾ったシリーズ全短篇を集成。関連エッセー二篇を併録。(粗筋紹介より引用)
 2021年10月、刊行。

 

 昭和20年1月6日、神田A町の坂場緑亭の主人である野田松太郎は、郡山の旅行先からそのまま姿を消した。妻のよし子に仙台から送った手紙には、片目の男に用心するようにと書かれてあった。1年後の1月7日、前触れもなく松太郎は緑亭に戻ってきた。一週間後の15日は緑亭の定休日。妻のよし子、女中の美代子、バーテンダーの飯島は外出し、残っていたのは松太郎と、白痴の弟竹二郎だけであった。午後三時、よし子と美代子が帰ってくると、二階で片目の男、橋本喬一が殺されていた。さらに竹二郎の部屋で、松太郎が遺書を書いて首を吊っていた。『ロック』(筑波書林)第6号(昭和21年12月)掲載。「緑亭の首吊男」。この格好いいエンディングは、加賀美が主人公ならでは。
 3月、上野駅地階のC食堂で、眼鏡の男が隣席に座っていたベロア帽の男の古トランクをすり替える現場を、同僚を迎えに来たまま待ちあぐんでいた加賀美は目撃した。加賀美はそのまま眼鏡の男を尾行すると、男は郵便局に入り、トランクの中身を小包にして、なんと加賀美宛に送ったのである。さらに歩き続けた男は喫茶店に入り、新聞の広告欄に赤線を引き、トランクを残したまま姿を消してしまった。加賀美に送られてきたのは、六十万円の紙幣だった。『旬刊ニュース』(東西出版社)第16号(昭和21年9月)掲載。「怪奇を抱く壁」。発端の謎が意外な方向に進み、事件を解決するプロットが巧い。
 加賀美はN県N市へ出張し、親友である泉野刑事課長を訪ねるも、泉野はF町にある花屋のマドモアゼルに行っていた。マドモアゼルは母親の大滝加代、長男の隆平、妹のマユミで平和に経営していたが、戦傷で両眼を失明した元大尉で弟の正春が、戦友で部下の服部吾一と石原門次郎を連れて帰ってきたたことから不穏な空気が漂う。それから一か月後、隣の空き部屋で服部が殺された。それが加賀美が来る一か月前の事だった。『宝石』(岩谷書店)昭和22年2・3月合併号~4月号連載。「霊魂の足」。泉野と加賀美の推理合戦が楽しい。論理で犯人を追い詰める醍醐味が見どころ。
 10月、加賀美は自分を狙った掏摸を秋葉原駅で捕まえる。その掏摸はある男に頼まれたという。その目的は、ポケットの中にあったスペードの三のカードであった。四日前に木挽町タチバナホテルの二階で下宿代わりに住んでいた、元劇団座長として名前の知られた川野隆が部屋の中で撲殺された。元劇団員山西専造、元劇団員で甥の糸村和夫、宿泊客の男女は部屋の外の廊下で叫び声を聞いたが、鍵のかかった扉を後から駆け付けた支配人が開けるも、川野の死体しかなかった。半開きの窓から逃げるのは難しい。では犯人はどこから逃げたのか。しかも犯人は、凶器のブロンズ像の太い方を持って、細い方で殴りつけていた。さらに何も盗まれておらず、動機も見つからない。『新青年』(博文館)昭和23年11月号掲載。「Yの悲劇」。タイトルはバーナビイ・ロスの長編との関連からつけられている。不可能犯罪の謎解きが面白い。
 10月下旬、杉並区大宮(八幡宮)前の空襲を免れた一劃に建つ洋館で、資産家の須川正明が殺された。不思議なことに、死体の鼻下には墨汁で八の字髭が描かれていた。さらに死体の膝の上に置かれた京人形、そして亡妻と養女の写真にも髭が描かれていた。事件現場にいた正明の弟の唯雄は勘当後に満州ゴロをしており、終戦後に帰国したが、正明と亡き父の遺産の問題で争っていた。その夜、正明は養女の圭子と入籍し、遺産のすべてを圭子に渡す書類を作って、明日の朝には正式に法律的手続きを取る予定だった。しかし正明は、正明が別の人物と一緒にいたと訴える。その人物とは、正明の従弟の並木道太郎で、無頼漢仲間と付き合っている道楽者だった。『旬刊ニュース』第20号(昭和22年1月)掲載。「髭を描く鬼」。なぜ髭を残したのかという謎が面白い。ただそれ以外は今一つ。
 黄色い頭髪の夫人を求むという新聞広告が載って三日目の10月30日、中央線の大久保駅近くの柏木三丁目の焼野原で女性の他殺死体が発見された。殺されたのは前夜の前夜の八時前後。女は日本時には珍しい珍しい黄髪だった。しかし女性の身許は一向にわからなかった。『ロマンス』(ロマンス社)昭和22年2月号掲載。「黄髪の女」。戦後すぐの時代ならではの事件ともいえる。社会派に近い作品。
 12月2日、池袋駅近くにある馴染みのレストランで、加賀美は五人の子供を連れた夫婦が気にかかる。特に父親の言動はおかしかった。その三日後、武蔵野電車のN駅南の雑木林で、匕首で刺された父親の死体が発見された。被害者の胸元におかれたきんしの袋に、裏切り者を処刑すと書かれていた。『物語』(中部日本新聞社)昭和22年2月号掲載。「五人の子供」。これは人情物。涙無くしては読めない。
 加賀美のモデルであるメグレ警部について書かれたエッセイ。『真珠』(探偵公論社)昭和23年6月号掲載。「加賀美の帰国」。
 作家たちの自薦作を集めた特集企画に寄せたコメント。『別冊宝石』38号(昭和29年6月)掲載。「『怪奇を抱く壁』について」。

 

 戦後すぐの昭和21年春、角田喜久雄が発表の当てもなく書いた本格探偵小説『高木家の惨劇』で加賀美捜査一課長はデビューする。ただしこの作品が発表されるのは一年後であり、世に出たデビュー作は短編「怪奇を抱く壁」である。モデルとなったメグレ警部そのままに、ビール好きで寡黙な加賀美が事件の謎を解いていくのだが、その根底にあるのは戦後の混乱に対する怒りでもある。特に「黄髪の女」「五人の子供」は、他の作品のような謎解きではなく、その怒りの主張がストレートに出てきた作品である。
 本短編集は加賀美が登場する全短編を集めたものである。最近では『奇跡のボレロ』(国書刊行会)に全てまとめられていたが、そちらも手に入りにくくなっているので、このように手に取りやすい文庫で出版されるのはうれしい。
 トリッキーな作品も多く、本格探偵小説としても読みごたえがある。戦後すぐの時代背景が色濃く出ていて、若い読者にはピンと来ない部分があるかもしれないが、今読んでも十分に面白い。横溝正史高木彬光坂口安吾などの陰に隠れてしまった感はあるが、戦後の本格探偵小説ブームを支えた作者の傑作を堪能してみてはどうだろうか。
 自分で笑っちゃうのは、『奇跡のボレロ』を持っているのは確実なのだがいまだに読んでおらず、しかも部屋のどこにあるかわからないところだな。