- 作者: 田島恵三
- 出版社/メーカー: 教文館
- 発売日: 1997/01
- メディア: 単行本
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Sは満州の国策会社である自動車会社に勤務するも、戦争の末期に軍隊に召集され、敗戦後はシベリアに連行されて、そのまま帰らなかった。母親も戦後に病気で亡くし、生まれたばかりの妹も栄養失調で亡くなった。Sはいつしか、博多に帰っていた。満とSは再会までの流れを互いに話す。Sは、俺は親不孝だった、俺を許してくれるだろうか、おふくろに会いたいとしみじみと語った。住所を聞いた満は手紙を出すも、宛先人不明という付箋とともに送り返されてきた。
満はこの夏、郊外にある引き揚げ孤児園へ訪問に行く途中、電車の隣の人が読んでいた新聞に、見覚えのある男の顔写真が載っていた。満は翌日、図書館でその新聞を見つけ出す。そこに載っていたのはSだった。
Sは1949年、市内で刑事と称するF(31)と知り合う。市内の公園に住むバタ屋の男性(41)が小金を貯めこんでいることを知り、5月16日午後11時ごろ、偽刑事を装い、男性の雨合羽が盗品であるとだまして田んぼに誘い出し、マフラーで絞殺。現金8,600円を強奪して逃走。また2人は16日深夜、市内に住むバタ屋の男性からズボン一着を強奪、市内の別のバタ屋の男性方にも偽刑事を装って押し入り、金を出せと脅迫して殺人未遂を働いていた。遺体は5月25日に発見され、7月27日午後10時ごろ、S(20)が逮捕された。Sは6月3日、八幡市の農家の男性(70)方に侵入して絞殺、現金230円と米3kg他を強奪していた。
満は10月7日発行の朝日新聞夕刊で、Sが福岡地裁で求刑通り死刑判決が言い渡されたことを知る(注:11月7日の誤り)。
1か月半後、満は母に諭され、Sと拘置所で会い、聖書を渡す。Sの求めに応じ、後日、衣服をSに差し入れた。そして、Sとの手紙のやりとりが始まる。伯父からは見放され、弟とも会うことができなかったSは満を頼りにし、金を無心するようになる。満は節約しながら、少しずつ差し入れを行った。また毎日のように手紙を書き続ける。
満は福岡中部教会の掲示板に貼られた、新しく発足する国際基督教大学(ICU)のポスターに目が留まる。満は図書館を辞めてICUを受験し、合格。1952年4月より入学した。4月22日に久しぶりのSからの手紙には、9日に控訴審判決があって棄却されたこと、そして日用品や葉書代に困っているという金の無心が書かれていた。
5月ごろ、満の元にUという人物から手紙が届く。Uは熊本県出身で、二人を殺害して死刑判決を受け、福岡拘置所にいた。Uはクリスチャンとなり、他の死刑囚に伝導しているが、そのうちの一人にSがおり、常に反抗的な態度を取っているという。そしてSは満からのお金で買い食いばかりしているという。満からSへの手紙をすべて読ませてもらったUは、Sを救うためにも満と連絡を取る必要を感じ、手紙を書くことにしたのだ。
以後、満とUとの頻繁な手紙のやりとりが始まった。
Uは満の手紙をじっくり読むよう、Sに勧める。Sは初めて満の手紙を真剣に読み、そしてSは変わった。Sは熱心に聖書を読むようになり、祈るようになり、賛美歌を大きな声で歌うようになった。Sは満の妹・玲子(満と同様、Sに暖かい手を差しのべていた)に、心からの感謝の手紙を書いた。
Sは4月19日に最高裁に上告するも21日に取り下げ、死刑が確定した。
(なお、Sが上告を取り下げた理由として、サンフランシスコ平和条約締結に関する恩赦(4月28日に行われた)を期待して取り下げた、という推察(HP『刑部』内、死刑囚列伝 (第五話)主犯と従犯)があるが、本書ではそのことには触れられていない。5月1日の手紙に、上告を取り下げて六か月内に刑が執行されるが、身も魂もすべて神に任せ、聖書を何べんとなく読んで、もう反省している旨が書かれている)
以後、Sから満への手紙には、犯罪への悔恨、そして信仰に目覚めて新たなる発見を見つけた姿が書かれるようになる。Uから満への手紙にも、生まれ変わっていくSの姿が書かれていった。満と、同級生の森田武夫、松永希久夫は、牧師からのわかりやすい説教をノートし、SやUたちに送り続けていく。Sは6月25日、受洗した。Sは伯父たちとも和解した。
Sからの最後の手紙は、1953年3月24日だった。その3日後、3月27日にSは執行された。処刑に立ち会った福岡中部教会の斎藤副牧師は、Sは非常に穏やかな態度で、笑顔さえ浮かべていたと述べている。処刑に立ち会った信徒の役人も、Sほど平静で落ち着いた人は経験したことが無い、と語っている。
Sの死後も、満はUに牧師の説教筆記を続けて送っていく。Uは以後も死刑囚に聖書の教えを伝えていき、さらに外部との交流の輪を広げていく。
Uは1958年4月14日、死刑を執行された。
田島恵三は1926年、群馬県生まれ。富士銀行に入行、支店長等を歴任した後、(株)ジャックス常務取締役、ジャックスCCN社長を歴任し、1994年に退職。日本キリスト教団生田教会役員。当時日本女子大学社会学教授だった新保満と生田教会で出会う。新保から『永遠と愛 エミール・ブルンナー教授説教集―新保満の筆録による―』(真値書房,1989年)を借りて読み、巻末にSやUとの出来事が書かれていて、田島は感動。時間も経っていることもあり、新保は手紙を貸してくれた。それを読んで感動した田島は纏めたいという衝動に駆られ、この本が執筆された。
本書に出てくるSは、死刑の歴史の中でも知られた存在である。事件の共犯でもあるFとは、1965年に警察庁広域重要指定105号事件で8人を連続殺害した古谷惣吉のことである。古谷は1951年12月に恐喝で逮捕されたが、この時は清水という別名を使い、懲役3年の実刑判決を受けて服役した。1953年9月の仮出所後、窃盗事件で逮捕されて本名がばれる。当然強盗殺人事件でも起訴されるが、この時はすでにSは執行されていたため、古谷は従犯を主張。1955年6月16日、福岡地裁は懲役10年(求刑無期懲役)判決を言い渡した。後に上告が棄却され確定する。
事件当時まだ未成年のSと、すでに強盗など複数の前科を持つ古谷。どちらが事件の主導権を握っていたかは、容易に想像付くだろう。Sは裁判では、家の外で待っていただけだ、と主張している。しかしSは主犯として、死刑判決を受ける。さらに共犯が逮捕されていないのに、Sは死刑を執行された。後に古谷は強盗殺人事件で起訴されるも、死人に口なしで従犯を主張。結局懲役10年という短い判決を受けることとなる。古谷が裁判を受けているときにSが生きていたら、少なくともこのような結果にはならなかっただろう。後に共犯者が捕まらない、裁判が終わらないうちは、死刑の執行は控える不文律が生まれる。
そしてもう一人登場したUは、福岡刑務所藤崎拘置区内における死刑囚のクリスチャンの集まりであるカルバリ会の創設者として知られている。カルバリとは、イエス・キリストが十字架につけられたゴルゴタの丘のラテン語名である。その活動は後に、同じ建物にいる一般の被告にも広がり、さらに他の刑務所やハンセン病の療養所などにも広がっていく。
本書は荒れていた死刑囚が信仰を通じて更生し、天に召されるまでが書かれる。もちろん罪は罪として裁かれるべきであるが、やはり死刑囚には自らの罪を悔い改めて欲しいと思う。それが殺害した相手に対するせめてもの供養になるであろう。
ただしこういう活動に対し、本来なら死刑にならないはずだったのに自らの運命を受け容れさせ、執行まで導いてしまう、という批判があったと聞いたことがある。事実、Sは再審請求を一度考えていたらしいが、諦めたとのことだ(免田栄『免田栄獄中ノート』(インパクト出版会))。ただ、それは的外れな批判でしかない。少なくとも、本書に出てくるような人たちへの冒涜だろう。
私は仏教徒であり、しかも信仰にはほとんど興味がなく、困った時にだけ神頼みするような信心の薄い人物である。だからこそ、こういう奉仕の精神を持った人々には素直に頭を下げてしまう。そういう意味では、素直に感動してしまう一冊である。