平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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西村望『鬼畜 《阿弥陀仏よや、おいおい》』(徳間文庫)

鬼畜―阿弥陀仏よや、おいおい (徳間文庫 120-1)

鬼畜―阿弥陀仏よや、おいおい (徳間文庫 120-1)

樫尾卯吉は高知の山峡にはりついた小集落に生まれた。唖のように物いわぬ子だった。徴兵をのがれて流浪の生活が始まった時、彼の人生は狂った。――捕えられて入営、やがて脱走、放火、殺人未遂、軍法会議。人生をやりなおそうと思った時もあったが、所詮、鬼畜のような殺人人生だけが彼の宿命だったようだ。酸鼻な犯罪行為と息をのむ現場描写で、著者が新ジャンルを開拓した社会派ドキュメント! (粗筋紹介より引用)

1978年5月、立風書房より書き下ろし刊行。1981年、文庫化。



ノンフィクション・ノベルを数冊書いている西村望の作家デビュー作。佐木隆三復讐するは我にあり』が1975年に直木賞を受賞したことにより、ノンフィクション・ノベルというジャンルが脚光を浴びるようになったが、それに触発されたのだろうか。本作品は、「四国の鬼熊」事件とも言われている四国連続6人殺害事件を題材にしている。

本作品の主人公、樫尾卯吉が生まれてから逮捕されるまでを、順に追って書いている。さながら、樫尾卯吉の伝記のようにだ。そしてそれは、犯罪記録そのものともなっている。20歳過ぎで逮捕されてからは、そのほとんどを刑務所で過ごしている。刑務所の中では比較的真面目だったようなので、無期懲役のまま刑務所にいればよかったのにと本人も思っていることだろう。

それにしても、最後の連続殺人事件は酷すぎる。腹が減ったら奪い取り、邪魔をすれば殺すだけ。特に一家6人殺傷の残酷さは目を覆うばかりである。まさに本のタイトルにあるとおり、「鬼畜」の行為である。作者は、そんな鬼畜な行為を淡々と、しかし事細かに記している。それは陰惨すぎて恐ろしい。人間、ここまで恐ろしいことができるのだろうかといいたくなるぐらい、非道い光景である。

しかし作者はあとがきでこう述べる。「もし同じような立場に立たされたら、おそらく何人かの人間が樫尾と大同小異の行動をするのではないか」。



副題の「阿弥陀仏よや、おいおい」は、『今昔物語集、巻第十九、第十四話』に治められている話から来ている。

讃岐の国にいた源太夫(げんたいふ)は、鹿鳥を狩り魚を取る、殺生をもってなりわいとするきわめて猛々しい男であり、人の首を切ったり足や手を折ったりせぬ日の方が少なく、因果を知らず三宝を信じなかった。ある日、家来とともに帰る途中、お堂で講(仏様やお経を供養する法要)が行われていた。源太夫は乗り込み、講師に話を迫る。講師は西西方には阿弥陀仏がおり、罪人でも公開して「阿弥陀仏」を唱えれば迎え入れられ、浄土に生まれ変わって仏となることができると教えた。源太夫はその場で頭を剃って出家し、家来を置き、入道となって鉦をたたき「阿弥陀仏よ。おおい。おおい」と呼びながら、ひたすら真っ直ぐ西へ向かっていった。そして西にある高い峰で阿弥陀仏が応えてくださった。七日後、入道は同じ場所で西を向いたまま、往生を遂げていた。口から蓮華が一本生えていた。



樫尾卯吉は命のある限り逃亡を続けていく。「鬼畜」と呼ばれるような人生の中で、かれはどのような気持ちで彷徨い続けていたのだろうか。もし阿弥陀仏を唱えることで往生できるのなら、ひたすら唱えていたに違いない。