平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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水上勉『その橋まで』上下(新潮文庫)

その橋まで 〈上・下〉 (1979年) (新潮文庫)

その橋まで 〈上・下〉 (1979年) (新潮文庫)

殺人犯として刑に服し、17年ぶりで娑婆に出てきた名本登。仮釈放を許され、自由の身になったとはいえ、彼は厳重な保護観察を受けなければならず、どんな微罪でも犯せば最後、たちまち刑務所に逆戻りだった。地道な木工職人として社会復帰の道を踏み出した彼には、しかし、ひょっとした成り行きから、婦女暴行殺人の容疑がかけられる……。犯罪者の更生の苦しみを描く問題作。(上巻粗筋より引用)

名本の幼なじみが連れこみ宿で死んでいた事件に続いて、今度は、モーテルの近くの山中で若い女が縊死体で発見されるという謎の事件が起こった。保護観察所の庇っている仮釈放者が、仮面をかぶって犯罪を重ねているのではないか――警察は前科者の名本に対する疑惑を深め、執拗に追及する。<犯罪>の虚実を探り、獣性と仏性をふたつながら内包する人間のかなしみを描く社会小説。(下巻粗筋より引用)

週刊新潮」昭和45年10月3日号〜47年10月14日号にかけて連載。連載時タイトル「あの橋まで」。昭和47年、新潮社より単行本刊行。



社会派推理小説『海の牙』で売れっ子になった水上勉だが、推理作家時代は数年というイメージしかない。そもそも探偵作家クラブ賞を受賞した年に『雁の寺』で直木賞を受賞しているぐらいだし、以後も推理小説というよりは社会的な問題や人間の姿を描くといったところに力点が置かれていることから、これは殺人事件を扱っているから推理小説、これは殺人事件がないから普通小説、みたいな捉え方しかされていなかったんじゃないかと思う。そのうちに大物作家となって、推理小説を書かなくなってしまったが、罪をテーマにした作品を何作も書いており、ミステリのカテゴリに入れても問題がないような作品もある。

この作品は、殺人事件で無期懲役判決を受け仮釈放された男が、変わってしまった世の中に戸惑い、微罪でも刑務所に逆戻りしてしまうという保護観察の檻に縛られながらも更生しようともがき苦しむ姿が描かれている。喧嘩に巻き込まれても、交通事故を起こしても、下手をすれば職務質問をしてきた警官の挑発に乗っただけでも、仮釈放は取り消されて刑務所に逆戻りしてしまうのだ。しかし主人公の名本は、刑務所の外でも苦しみ続ける。前科者・殺人者という冷たい視線と偏見と、厳しすぎる遵守事項は、自業自得とはいえ苦しいものだろう。しかも本書では、幼なじみで刑務所で文通していた女性と再会して結ばれるが、その女性が死んでしまう。最初は自殺と思われたが、そのうちに名本が警察にマークされてしまうようになる。前科者が再び殺しに手を染めたと思われても、偏見とばかりはいえないだろう。こうして名本は勤め先を辞め、新しい場所で木工細工を手掛ける男に見込まれる。ところが男と年の離れた妻の誘惑に負けあやまちを犯してしまう。さらに別の連続暴行殺人事件の容疑までかけられる。行方不明だった父と再会し、亡くなった父の骨を母の里へ埋葬でき、さらに事件の真犯人は捕まった。しかし別の事件に巻き込まれて傷害事件を引き起こし、名本は保護観察を取り消されてしまう。名本は、社会には出たくない、刑務所に一生過ごしたいと言い残し、刑務所へ帰っていく。

犯罪とは何か、罪とは何か、仮釈放とは何か、更生とは何か。水上勉は重い問いかけを私たちに投げつける。一人の男が社会に翻弄された姿を通し、様々な矛盾を描写する。更生しようともがくのに、社会の冷たさに絶望する名本の姿は、あまりにも哀しい。

ただなあ……。名本がかつて殺した被害者については、ほとんど描かれることがなかった。きちんと冥福を祈っているようだが、ただ社会で真面目に生きることが更生なんだろうかと疑問に思ってしまうのも事実。かつての罪の重さに名本が引きずられていることは事実だし、過去にばかり目を向けていてはいけないこともわかるのだが、その辺の描写が少ないことには残念に思った。



なお、2004年9月26日の読売新聞によると、この小説にはモデルがいる。強盗殺人罪無期懲役を受け、仮釈放中の新潟県内の男性が、2004年9月8日に水上勉が亡くなった後に名乗り出た。富山県出身の男性は、戦後の混乱期で窃盗や恐喝を繰り返して少年院や刑務所を往復する。出所後の21歳の時、富山県内で母子を殺害する強盗殺人事件を犯し、無期懲役判決を受けた。15年後の1968年に仮釈放された後、服役中に自らの生い立ちをつづった15冊の大学ノートを何人かの作家に持ち込み、自分の人生に区切りをつけたいと訴えた。それに応えたのが水上勉だった。取材は2年間に及び、連載が始まったがこの小説だった。男性は刑務所で身に着けた印刷の技術を生かして社会復帰し、結婚して一児をもうけた。しかし印刷所での現金盗難事件で真っ先に疑われて、地方を転々。20年前には妻とも離婚し、以後は一人暮らしだった。水上との付き合いはずっと続いていた。