平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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青木理『絞首刑』(講談社文庫)

 国家の名のもとに命を奪う「死刑」。著者は、数々の証言から執行現場を再現し、実際に起きた5つの事件を再取材しながら処刑に至る道程を検証する。なかでも、1994年に発生した、いわゆる「木曽川長良川連続リンチ殺人事件」で逮捕され、死刑判決を受けた元少年3名への取材は、精緻を極める。死刑制度に対して是とする人々、非とする人々、あらゆる立場の人々に一読していただきたい、渾身のルポルタージュ。(粗筋紹介より引用)
 2008年末に休刊した『月刊現代』(講談社)誌上での連載記事などをまとめ、2009年7月に講談社から単行本として刊行。2012年11月、加筆の上文庫化。

 ジャーナリストの青木理が、以下の5つの死刑事件について再取材を行い、死刑について考えた著書である。

  • 「大阪・木曽川長良川連続リンチ殺人事件」:小林正人、小森淳(旧姓)、河渕匡由(旧姓)各死刑囚
  • 「今市前妻親族一家殺傷事件」:藤波芳夫死刑囚
  • 「愛知連続保険金殺人事件」:長谷川敏彦死刑囚
  • 「熊谷男女4人拉致殺傷事件」:尾形英紀死刑囚
  • 飯塚事件」:久間三千年死刑囚

 いずれも事件の詳細から裁判の状況、そして執行にいたるまでの取材がなされている。このうち「大阪・木曽川長良川連続リンチ殺人事件」については、まだ確定しなかった3人の元少年に直接取材を行っている。
 本書の大きな軸となっているのは、一番ページが割かれている「大阪・木曽川長良川連続リンチ殺人事件」である。先に書いたとおり、死刑判決が確定する前から確定後まで、面会を通して3人(仮名)の心情に迫っている。また被害者遺族に対しても熱心な取材を行っている。
 これを読むと、3人の被告、そして被害者遺族も心が揺れ動いていることがわかる。裁判という長い月日で、心情は変わっていくだろう。ただ、私が一番すんなりと頭に入ってきたのは、ある被害者遺族の話である。

「杉下(仮名)は去年、親を亡くしたんですね……。 手紙に『自分が至らなかったために、親父の命を縮めてしまった』と書いてあったんです。そういう手紙を見た時には『ああ可哀想だな』と、ちょっと情に流されかかった部分もあるんです。私だって人間ですから、葛藤もある。情に流されるっていうこともある。坂口や堀田の家庭環境だって、いままでの公判の中などで、それは重々に承知しています。でも、それとこれとは別です。それは切り離して考えたい。そこを考えると、先に行けなくなってしまうんです。だから、そこには厚いフタをするんです。情とか育ちなんて関係ない。犯したことの責任は、きっちり法廷で取ってほしい、と……」
「私も、一つの方向ばかりから物を見てはいかんだろうと思って、死刑反対を訴えている人々の意見や、一方で死刑に賛成の意見も、いろいろ読んだり耳を傾けたりしてるんです。両方の意見を平等に考えようと思ってね。でもやっぱり『木曾川長良川』という事件に戻ってきてしまって、被害者としての感情が強くなってしまう。私たちがこんな被害を受けずにいれば、それぞれに一長一短あるんだな、と思うことができたのかもしれないんですけど、やっぱり事件に戻ってきてしまうんです」

 「情とか育ちなんて関係ない。犯したことの責任は、きっちり法廷で取ってほしい」というのは、自分の頭の中で一番納得してしまう。

 「今市前妻親族一家殺傷事件」の取材の最後で被害者遺族が執行時に「ようやく一区切りついた感じだ」と記者に語ったというが、それから二年後に取材したら「何とか、ようやく生きているんだ。勘弁してほしい。忘れたいんだよ。心の、ひどい傷になっているから。もうほじくり出さないでくれよ……」と訴えていた。執行されようが、心に傷は残ってしまう。ただ私は勝手ながらこう思ってしまう。執行されていなかったら、傷口が永遠にほじくり出されていたのではないか、と。この取材から受ける印象は、作者と私で違うのだと思う。
 死刑問題の取材になるとほぼ必ず出てくるのは、「愛知連続保険金殺人事件」の被害者遺族、原田さん。訴えたいことはわからないでもない。ただ、こういう立場の人の話になると、出てくるのは毎回原田さん。申し訳ないけれど、被害者遺族の中では異端の方だと思ってしまう。異端が悪いというつもりはない。ただ、こういう立場の人がほとんどいないというのは、訴えとしては非常に弱いと思ってしまう。こういう意見が多数にならないと、説得力に欠けるのではないか。
 ただ、被害者遺族が一番感じているのは、以下の言葉だろう。
「犯罪の被害者遺族は、大切な人を突然奪われることによって不幸不幸の谷底に叩き落とされる。刑事司法やマスコミ、大多数の世間の人々は、平和な崖の上から見下ろしながら『可哀想に』と同情の声をかけてはくれるけれど、本当の意味での救いの手を差し伸べてくれようとはしない。その代わり、崖の上から加害者を突き落とすのに夢中になっているだけではないか……」


 本書ではプロローグで、執行に立ち会う教戒師、若い刑務官、高検から立ち会う検事にも取材を行っている。もちろん貴重な意見だと思うが、こういうのはもっと複数の意見がないと、説得力に欠ける。

 エピローグでは、「大阪・木曽川長良川連続リンチ殺人事件」の裁判で最高裁判決が言い渡された翌朝の、小森淳死刑囚への取材の様子と、さらに名古屋拘置所が抗議文を送ったその顛末が書かれている。小森死刑囚は本書の中で仮名で語られていたが、ここでは実名となっている。結果は仕方がないが、内容は見てほしい、自分がトップだったというのは事実と違うと、最後まで訴えていた。
 青木はこの時、小森の顔をこっそりと写真に撮っていた。そして週刊誌『FRIDAY』(講談社)は2011年5月12日発売号で、死刑確定前の3月11日に名古屋拘置所で大倉淳被告と面会した際に撮影したとする写真を掲載した。面会したジャーナリストの青木理氏の記事とともに、元少年がアクリル板越しに涙をぬぐう様子など3枚を掲載した。フライデー編集部は「報道に意義があると考え、編集部独自の判断で掲載した。撮影方法についてはコメントしない」と話している。小森死刑囚は5月12日、弁護人の村上満宏弁護士に「記事の内容に不服はない」との感想を伝えた。拘置所で接見した弁護士が明らかにした。死刑囚は撮影や掲載を事前に知らされていなかったという。
 名古屋拘置所は5月30日付で、青木たちへ抗議文を送った。名古屋拘置所によると、面会時の撮影を禁じる法律はないが、拘置所の規定で撮影や録音を禁じており、一般面会者のカメラや携帯電話などをロッカーに保管させる上、金属探知機でも確認し面会室への持ち込みを認めていない。

 初版あとがきで「死刑に関わる人々──執行にあたる人々はもちろん、死刑囚や被害者の遺族までを含む人々──の心中に渦巻いているだろう感情の深淵を、現場取材で多角的に、包括的に描いたノンフィクションやルポルタージュ作品は見当たらなかった。だから私たちは、死刑制度の是非を考える前提としての事実を、死刑という刑罰に否応なく関わらざるを得なくなった人々の心の襞を、現場取材によって提示できないだろうかと大それたことを考えた。表層的な情念や理念に寄るのではなく、可能な限り多くの関係者に会い、死刑という究極の刑罰を取り巻く人々の、奥深い心象風景の中へと分け入ってみたいと思ったのだ。そうして始まったのが、本書へとつながる取材だった。
(中略)
 私たちが提示したいのは、制度としての死刑論でもなければ、その是非をめぐる抽象的な議論でもない。究極の刑罰に直面せざるを得なかった人々の心の奥に分け入り、それを描く作業だったのだから」と書いている。

 

 これが本書をよく表しているだろう。ただ、本人も心残りであるように、「裁く側」の視座に立ち入らなかったのは残念であった。それに加えるのであれば、被告を捕まえる警察の視座にも立ち入ってほしい。被害者自身の苦悩を一番間近で見ているのは、実際に犯行現場に立ち入った人たちだからと考えるからだ。
 そして、もっと取材対象を増やすべきだろう。言い方は悪いが、被害者遺族ながら執行に反対する原田さん、そして無実の罪で執行した疑惑が消えない飯塚事件は、題材としてよく取り上げられているものだ。もっと他の事件を取り上げてほしい。袴田事件で死刑事件の再審が決まった今だからこそ、続編が待たれる。