平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

漂泊旦那の日記です。本の感想とサイト更新情報が中心です。偶に雑談など。

門井慶喜『家康、江戸を建てる』(祥伝社文庫)

「北条家の関東二百四十万石を差し上げよう」天正十八年、落ちゆく小田原城を眺めつつ、関白豊臣秀吉徳川家康に囁いた。その真意は、湿地ばかりが広がる土地と、豊穣な駿河遠江三河、甲斐、信濃との交換であった。家臣団が激怒する中、なぜか家康は要求を受け入れる―ピンチをチャンスに変えた究極の天下人の、日本史上最大のプロジェクトが始まった!(粗筋紹介より引用)
 2016年2月、祥伝社より単行本刊行。同年、第155回直木賞候補作。2018年11月、文庫化。

 

 豊臣秀吉の要請(命令)により、江戸へ国替えすることとなった徳川家康。江戸を大坂にしたいという家康はまず、江戸の地ならしを始めることとする。その差配の役目を仰せつかったのは、伊奈忠次。忠次が考えていたのは、雨が降るたびに大洪水となって江戸を水浸しにする利根川を大きく東へ曲げて、河口を東へ移してしまおうというものだった。巻頭代官となった忠次の事業は、嫡男忠政、その弟忠治、さらにその息子忠克まで続く。「第一話 流れを変える」。
 秀吉のように大判を造りたいという家康の求めに応じ、秀吉の吹立御用役、後藤徳乗の弟である長乗が江戸にやってきた。京に帰りたい長乗は体が弱いので関東の寒さが堪えると訴え、段取りが付いた二年後、橋本庄三郎を残して京へ帰った。庄三郎は今まで隠していた野心を表に出し、数ヶ月で家康の前に出来上がった大判を差し出した。家康は庄三郎に、大判の代わりに新たに小判を造れと命令した。それは豊臣方に、貨幣戦争を仕掛けるものだった。「第二話 金貨を述べる」。
 家康は菓子作りが得意な大久保藤五郎に、江戸の民に飲ませる水を探すように命令する。藤五郎は赤坂の溜池と神田明神山岸の細流の良い水を見つけ、江戸へ流すようにした。それから十三年後、家康は武蔵野で源頼朝が最初に見つけたという「七井の池」を、名主である内田六次郎に案内され、その水の美味さに感激した家康は、六次郎にこの水を江戸まで引くように命じた。「第三話 飲み水を引く」。
 伊豆国の堀河に見えすき吾平と呼ばれる石切(採石業者)の親方がいた。吾平は石の節理を読む超能力を持っていた。その名声が代官頭、大久保長安の耳に入り、江戸城の石垣の石を切り出す役に着いた。三年後、吾平は役目を退き、新しい石切場を探す。二年後、天城山の北西部に良好な石切場を見つけた。吾平は七年かけ、その地を最良の石丁場に仕立て上げた。吾平は親方を退き、自らが切った石がどう扱われているかを知るために江戸に出る。「第四話 石垣を積む」。
 家康は藤堂高虎江戸城を築けと縄張りを命じた。図面を引き、施工者も天守台が黒田長政天守の作事が大工頭の中井正清と決まり、人も集まったところで、将軍を継いだ秀忠が天守はいらぬのではないかと家康に訴えた。しかし家康は天守の建設命令を出す。正清は天守の外壁を、通例の黒ではなく、白壁にしろと言われて困惑する。正清は、白壁にするに必要な石灰を探すこととなった。秀忠は、なぜ家康が白壁の天守を造れと命じたのか、その答えを探す。「第五話 天守を起こす」。

 

 後に世界一の大都市となる江戸は、家康が入るまでは湿地ばかりの小さな城下町でしかなかった。いかにして江戸は世界有数の都市に発展することとなったのか。その基礎となった工事に携わった人たちを主人公にした短編集。戦国の世ということもあり、どうしても戦う方の武人ばかりに目を取られがちであるが、平和を築くための世を作るのは文人である。世間的にはあまり大きく取り上げられることのない人たちの活躍を、それもエンタメとして書くのは、かなりの筆力が必要だろう。一人一人の、歴史にはなかなか表に出てこないドラマを浮き彫りにするその筆は、実に優しい。
 歴史小説の傑作の一つだよね、うん。