平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

漂泊旦那の日記です。本の感想とサイト更新情報が中心です。偶に雑談など。

松本清張『疑惑』(文春文庫)

疑惑 (文春文庫 (106‐67))

疑惑 (文春文庫 (106‐67))

雨の港で海中へ転落した車。妻は助かり、夫は死んだ―。妻の名は鬼塚球磨子。彼女の生い立ち、前科、夫にかかっていた高額な生命保険についてセンセーショナルに書き立てる記者と、孤軍奮闘する国選弁護人の闘い。球磨子は殺人犯なのか? その結末は? 明治の藤田組贋札事件を描く「不運な名前」併録。(粗筋紹介より引用)

オール讀物』1982年2月号に、「昇る足音」の題で掲載され、同年3月、「不運な名前」を併録した中編集『疑惑』として文藝春秋より刊行。1985年3月、文春文庫化。



雨の中で海中に車が転落し、片方が生き残って生命保険金を請求する、という内容ですぐに「別府3億円保険金殺人事件」が思い浮かぶ。高額保険金搾取殺人事件の嚆矢であり、劇場型犯罪の走りであった。



『疑惑』の舞台となっているのは富山新港湾。40km/hのスピードで車が海に飛び込み、生き残ったのは34歳の鬼塚球磨子で、死亡したのは15歳離れた夫・白河福太郎だった。福太郎は資産家であり、球磨子は夫に3億円の保険金を掛けていた。そして球磨子は自らの無罪を声高々に訴える。確かにこれだけを見ると、「別府3億円保険金殺人事件」から舞台と人を入れ替えただけの作品に思える。最もこの作品はここから違う展開へ進む。

福太郎は山林や耕作地、貸しビルで資産が2億円あり、妻はすでに亡くなり、息子夫婦も谷川岳で遭難死、以後3人の孫を育ててきた。ところが福太郎は東京へ行き、球磨子がホステスをしていた新宿のバーで知り合ってのぼせ上がり、その後結婚。球磨子は3億円の生命保険金を掛けた。しかし孫3人は球磨子を嫌って母親の実家に移り、亡き妻の実家も憤慨して絶縁した。そして車が飛び込む事故が起きた。球磨子は取材に応じて無罪を主張し、ローカルテレビ局などにも出演して事故を主張した。

北陸日日新聞の社会部記者・秋谷茂一は、逮捕前に球磨子へインタビューしたことがあった。そして球磨子の生い立ちから、新宿でのホステス時代、暴力団員とつるんで詐欺・恐喝・傷害事件を起こして前科四犯だった過去などをほじくり返した。そして球磨子が車を運転してそのまま海に飛び込み、自分だけ逃げだして助かったという連載「女鬼クマの仮面を剥ぐ―三億円保険金殺人事件=ペンが告発する北陸一の毒婦」を紙上で書き続けた。マスコミも後追いで球磨子を追うようになり、「北陸一の毒婦」と呼ばれるようになった。逮捕された球磨子は完全無罪を主張するも、その高飛車な性格もあいまって、誰も弁護に付こうとしない。そして最後に、民事中心の佐原卓吉が国選弁護人となった。秋谷は球磨子の有罪を確信していたが、佐原の弁護を見て徐々に不安になり、無罪判決が出て釈放された球磨子がお礼参りをする妄想を抱くようになる。



清張が描きたかったのはマスコミの暴力であり、メディアの評判に惑わされずに真実を見極めようとする視点であろう。劇場型犯罪はどうしてもマスコミが扇動する形となるため、いわゆる大衆もその報道に踊らされることとなり、さらにマスコミの追求は警察や裁判所にまで及ぶようになる。そしてマスコミが求めるイメージに合わない「真実」は全て葬り去られてしまう。多分その格好の例として「別府3億円保険金殺人事件」を題材にしたのだと思われる。

この作品の映画製作発表後、荒木から清張宛に手紙が来て事件に関する意見を要求したが、清張はヒントにしたに過ぎないと言って断ったという。多分その言葉は正しいだろう。少なくとも本書には、実際の事件の真相を求めようとしたなどという視点は一切ない。



作品としては非常に面白く、さすが松本清張と思わせる中編に仕上がっている。特に事件の「真相」とその結末は意外性があって面白い。清張の晩年の作品ではあるが、その切れ味は落ちていなかったことが十分にわかる作品である。



本作品は1982年に松竹系で映画化され、球磨子を桃井かおりが、佐原を岩下志麻が演じ、二人の心理的関係に焦点が当てられた。脚本は松本清張自身が担当している。その後も4度、テレビドラマ化されている。



同時収録されている「不運な名前」は、明治11年(1978年)に発生した「藤田組贋札事件」を題材としている。北海道行刑資料館を舞台に、後に犯人として逮捕された熊坂長庵が冤罪であると主張する人物を中心に男女3人の会話形式で物語が進む。内容としては興味深いが、疑惑のままで話が終わっており、もう一つ進んだ部分が欲しかったと思ってしまった。