平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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ジャドスン・フィリップス『終止符には早すぎる』(新潮文庫)

 大都会ニューヨークの夜。いままさにアパートメントビルのテラスから飛び降りようとしている若い娘が一人。警官や近親者の説得にもかかわらず、彼女の決意は固かった。誰もが固唾をのみ見守るなか、殺人事件の容疑をかけられ姿を消していた富豪投資家が現れ、彼女に近づいていく……。“知の巨人”、植草甚一が『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』でも絶賛。NYミステリーの隠れた名作。(粗筋紹介より引用)
 1962年、発表。2025年11月、邦訳刊行。

 作者のジャドスン・フィリップスは、コロンビア大学在学中の1921年、フィリップ・オーウェン名義で短編を発表しデビュー。1924年、ジャドスン・P・フィリップス名義でミステリ短編を発表。以後はミステリを主ジャンルとし、様々な雑誌で長、中短編を書き続ける。ヒュー・ペンティコースト名義でもミステリを執筆。1940年代にはアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の創設に関わり、1947年に三代目会長に就任。1973年にはアメリカ探偵作家クラブ巨匠賞が与えられた。1982年、『過去、現在、そして殺人』でネロ・ウルフ賞を受賞。1989年に亡くなるまでに、100冊以上の単行本を上梓している。ハヤカワ・ポケット・ミステリなどから数冊邦訳されている。
 ジャズ、ミステリー、映画評論家のJ・J氏こと植草甚一が1972年に晶文社から刊行したミステリーブックガイドの逸品、『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』で絶賛されながらも、今まで未訳だった作品、"A Dead Ending"の邦訳である。50年以上経って、まさか邦訳されるとは……と書きたいところだが、『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』は40年以上前に読んでいるけれど、この作品については全く覚えていない。ま、そんなものだよね。
 弁護士のコーネリアス・ライアンが法律事務所の上級パートナーであるジェイコブ・クレイマーから紹介され、〈ニューヨーク・アスレチッククラブ〉で会ったのは、56歳独身の富豪、マシュー・ヒグビーだった。ヒグビーは禁酒法が廃止されるまでラム酒を密輸し、財産を築いた。26歳で足を洗い、以後は株式市場で取引をして資産を大きくしていった。ヒグビーはサラブレッドを購入してレースに出したいのだが、それにはライセンスが必要になる。ライセンスを申請すると、サラブレッド競馬保安局による身辺調査が行われる。保安局は問題なしとの判定を下したが、ニューヨーク州競馬委員会の委員長である第二次大戦の英雄、リー・フーバー将軍はヒグビーのことを公聴会の席で殺人者呼ばわりした。ヒグビーはどうしてもライセンスが欲しいと、ライアンに相談したのだった。
 相談が終わり、ライアンはヒグビーに誘われ、フランシス・テリルという女性の家へ案内された。しかし玄関を開けたテリルは、見たこともない二人の男に暴行を受けて傷だらけだった。激昂したヒグビーは、脱力したテリルをライアンに預け、外へ出て行ってしまう。さらに二人組のうちの一人が殺害されるが、それはフーバー将軍の甥デニスだった。
 1960年代のニューヨーク、禁酒法時代、戦争という時代を経たアメリカが行間から滲み出てくる。そしてなんといっても主人公であるマシュー・ヒグビーの魅力。「活力にあふれ、理不尽なほどに健康……不快になるほど金持ち」なのに、友人がいない。好きな相手に結婚を申し込んでも、いい人なので傷つけられないと断られてしまう。そんなヒグビーが見せる逆転劇。第四部、アパートメントビルのテラスから飛び降りようとするフランシス・テリルの娘ドーン。事件の担当であるダン・ニコルス警部、そして説得する面々、さらに少しずつ明かされる事件の真相。最後に出てくるヒグビー。まさに圧巻のドラマである。手に汗握る緊迫の場面なのに、登場人物たちの魅力が溢れてくるという描写が見事である。
 新潮文庫「海外名作発掘」の名に相応しい傑作。植草甚一が紹介しているのに、なぜ訳されなかったのかが不思議なくらい。代表的なキャラクターも紹介した、18ページにわたる小山正の解説、そして40ページ(!)に及ぶ著作リスト。それも含めて、今年度の収穫と言える一冊である。