平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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多岐川恭『的の男』(創元推理文庫)

《的の男》靴屋の小倅から野心と詳細で伸し上がった鯉淵丈夫は、還暦を迎えてなお頑健を誇り、我が世の春を謳歌する。こうした人間の常として周囲は敵だらけ。恨み骨髄の鯉淵を葬ろうと爪を研ぐ刺客も一人や二人ではない。ところがこの男、そう簡単には死んでくれそうもなく……。
《お茶とプール》雑誌社に勤める輝岡亨は、星加邸を訪れた折、居合わせた人々の間に漂う違和感を察知する。その場の不穏な雰囲気が、やがて人ひとりの死を招くことに。『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルを思わせる亨の身辺は、怪死事件以後様々に騒がしくなっていく。(粗筋紹介より引用)
 『的の男』は『週刊小説』1978年2月24日号~5月26日号連載。1978年7月、実業之日本社より刊行。『お茶とプール』は1961年8月、角川書店より書下ろし刊行。本書は2000年12月、刊行。

 

 『的の男』は、数々の恨みを持つ実業家の鯉淵を殺そうと、数々の刺客が様々な方法で狙うのだが、失敗ばかりでなかなか目的を達せられないというクライムコメディ。各章が「網」「銃」「穴」と、それぞれの刺客の殺人手段をタイトルにしており、その刺客の一人称で話が進んでいく。第一章の網については、何を考えているんだとしか言いようがない殺人手段であるし、その後もこいつは本気かと思わせるものが続く。ところが段々と計画が練られたものになっていき、今度は成功するんじゃないかと思わせるところは達者としか言いようがない。そして最後まで読んでいくと、読者は作者の仕掛けに思わず唸ってしまう。登場人物の造形の面白さと、隅々まで考えて練られたストーリー。やはり技巧家である、多岐川恭は。
 『お茶とプール』は、作者が「小ぢんまりとしたサロン推理小説とでも言ったもの」と書いている。週刊誌の経理部員である主人公の輝岡亨が、不動産会社を経営する星加太一郎の娘で亨の同僚である卯女子の兄、要の誕生会に飛び入りで参加する。亨の妹で卯女子の同僚かつ友人である協子はともかく、要の恋人の小倉まゆり、そして銀行頭取である永井基雄の娘、百合子がいて、不穏な空気を醸し出している。銀行から金を借りている星加夫婦は、基雄の要請で要と百合子が結婚するしかないと考えている。そしてエキセントリックで回りに不快感を与える百合子も、要との結婚を強く求めていた。その誕生会で百合子に渡されたハイボールの味がおかしかったことから、今後は亨が毒見をすることになった。しかもプールでの悪戯に巻き込まれ、泳げない百合子はプールに落ちて溺れかけた。そしてベッドで休んでいた百合子は、亨が毒見をしたココアを飲むも、苦しんで死んでしまった。ココアの中には毒が入っていた。
 初文庫化とのことだが、どうしてどうして、捨てたもんじゃない。いや、なかなかの佳作である。確かに作者がいう「サロン的推理小説」ではあるが、本格推理小説としての骨格を持ちつつ、ピカレスクロマンとしても仕上がっており、序盤での若者たちの楽しいやり取りとはかけ離れた結末に驚かされる。特に主人公である輝岡亨の造形は素晴らしい。人に好かれる表面とは裏腹の冷酷さと、何を考えているかわからない不気味さ。それでいて、目標に向かって突き進もうとする冒険小説の主人公や、何事にも屈しないハードボイルドの主人公とも異なる、不思議な存在感である。
 『的の男』『お茶とプール』ともに初めて読んだが、まだまだこんないい作品があるじゃないかと、改めて作者の技巧ぶりを知らされた。