平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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中川右介『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)

手塚治虫とトキワ荘

手塚治虫とトキワ荘

 

  手塚治虫という革命家が始めた「ストーリーマンガ」は、トキワ荘グループによって拡大し、ひとつの体制として確立した――戦後マンガ史を一行で書けばこういうことになる。こういう歴史の見方を「手塚・トキワ荘史観」というが、全ての「史観」がそうであるように、絶対的に正しいわけがない。手塚・トキワ荘史観に対しても批判がある。それは手塚の神格化に対する批判でもある。そういう批判や反論があることっ分かったうえで、この本は、あえて手塚・トキワ荘神話を再構築する。(帯より引用)
 東京都豊島区椎名町にあった木造二階建てのアパート、トキワ荘。1950年代、ここに住んだ手塚治虫の後を追うように、藤子不二雄A藤子・F・不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫らが居住したことで、このアパートはマンガ史に残る「聖地」となった。戦後、日本のマンガ雑誌が、月刊誌から週刊誌へと変貌していく過程で、トキワ荘に集ったマンガ家たちがたどった運命、そして、今もトキワ荘が伝説となって語り継がれるのはなぜか。膨大な資料をもとに、手塚治虫トキワ荘グループの業績を再構築し、日本マンガ史を解読する「群像評伝」。(「BOOK」データベースより)
 2019年5月、刊行。

 

 1953年1月に手塚治虫トキワ荘に入る。12月に寺田ヒロオが、1954年に手塚と入れ替わる形で藤子不二雄A藤子・F・不二雄が入る。1955年に鈴木伸一が、さらにその部屋に森安なおやが一緒に住む。1956年には石ノ森章太郎赤塚不二夫が入る。1957年には寺田ヒロオが出る。1958年に短期間で水野英子が、さらによこたとくおも入る。1961年には皆が出る。通い組には初期の永田竹丸つのだじろうなどがいる。
 もはや伝説となったトキワ荘。『COM』に掲載された漫画を集めた『トキワ荘物語』、石森章太郎『章説・トキワ荘・春』、藤子不二雄トキワ荘青春日記』、丸山昭『まんがのカンヅメ―手塚治虫トキワ荘の仲間たち』、梶井純トキワ荘の時代―寺田ヒロオまんが道』、伊吹隼人『「トキワ荘無頼派-漫画家・森安なおや伝』など、トキワ荘に関する著書は数多い。NHK特集『わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』、アニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』や映画『トキワ荘の青春』もある。藤子不二雄Aまんが道』は著者のライフワークとなり、この作品を読んで漫画家となった者も多い。
 トキワ荘ものはかなり好き。最初はやはり『まんが道』から入り、その後いろいろな本を買うようになった。本書を読んでアッと思ったのは、今までの作品は個人を中心としたものばかりだったこと。こうやってすべての事象を最初から最後まで時系列に並べて書かれたのは、初めてじゃないだろうか。そうか、こういう視点があったのかと感心してしまった。
 こうして読んでみると、上京は寺田が1953年、藤子が1954年、赤塚が1954年、石森が1955年。トキワ荘に入った年でつい考えてしまうから、赤塚や石森はかなり遅いイメージがあったのだが、実際はほとんど同時。勝手な思い込みだけど、こうやって各人のエピソードを並べて読んでみて、初めてその事実に気づいた。
 ほかにも劇画の話、ちばてつやなど他の漫画家などについても触れられている。既知の内容も多いが、数々の資料を基に、個人の記憶にたどらない歴史の記録としてまとめたことは特筆すべきだろう。惜しむべきなのは、「トキワ荘」という舞台を通して、どのような作風の漫画が描かれていったのかについても考察が欲しかったところ。特に寺田ヒロオが求めていた『漫画少年』の漫画と、その世界観から離れていく各人の漫画との乖離を突き詰めてほしかった。寺田ヒロオは、『ドラえもん』など藤子Fの児童漫画も認めていなかったのだろうか。
 トキワ荘を舞台にした一代歴史書として記憶に残る一冊であった。