平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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福田洋『汝、恨みの引鉄(トリガー)を弾け』(ベップ出版)

汝、恨みの引鉄を弾け (1983年)

汝、恨みの引鉄を弾け (1983年)

1951年2月28日早朝、神奈川警察署青木通り巡査派出所に制服姿の本部の監察官が入ってきた。休憩室には2人の警察官が眠り込んでいた。監察官は2人の警察官をたたき起こし、さぼっていた1人を直ちに巡回させ、休憩中の1人には罰として下着姿のまま派出所を走らせた。そのうち監察官は通りかかった大型トラックに乗せてもらい、巡査を許してそのまま去っていった。巡査が派出所に戻ると、45口径の拳銃一丁、弾19発が無くなっていた。監察官はもちろん偽者だった。監察官が着ていた制帽、制服は1月5日に神戸市警で盗まれたものだった。男の名前は安東。

5月31日朝、制服を着た安東は銀行を襲うために、西宮駅で1台の車を止めさせ乗り込んだが、偽警官と見破られ、運転手を脅すうちに車は堤の斜面を滑り落ちてしまった。安東はうまく逃げ延び、運転手もほとんど怪我はなかった。制服盗難事件と結びつけられることはなかった。

1952年1月26日午後8時過ぎ、安東は三ノ宮駅前にある劇場チェーンの事務所を襲い、売上金の一部を奪ったが、26000円しかなかった。拳銃を使ったが、横浜の事件と結びつけられることはなかった。

2月16日、安東は京都市にある大和銀行祇園支店を襲い、現金約100万円を強奪した。

この頃の警察は米国直輸入の制度を導入し、国家地方警察と自治体警察が独立していた。そのため、全国の警察署は管轄権や縄張りを主張して争いが絶えず、捜査能力は極端に衰弱していた。銀行を襲ったときも安東は神戸の事件も俺だと勝ち誇って喋っているのだが、警察同士の具体的な連携は得られなかった。この問題は1954年6月の新警察法成立によって解消され、二本立てとなっていた組織は一本化された。



12月、安東は神戸市に土地を買い、洋風平屋を新築した。安東はそこで医者を目指している恋人の良子と同棲を始めた。しかし猜疑心の強い安東の性格が表に出るようになり、二人の仲は険悪になっていった。たった一人の母は安東のことが嫌いであった。安東は在日朝鮮人だったからだ。

安東昭二は韓国人であり、戸籍名は朴夏竜。5歳の時に日本へ来た。当然のように差別を受けて育ってきた。朴は日本人として生きようと真面目に過ごしてきた。父親は植木屋として細々と、しかし堅実に生きていた。終戦後の1946年4月、安東は関西大学法科専修課に入学。安東は下宿先の隣室に住む戦争未亡人高木トミとその娘良子と親しくなった。半年後、トミとともに当時流行していた社交ダンスのレッスン場、摩耶学生クラブを開く。一年生法科を卒業後の1947年2月より、安東は本格的に経営へ参加し、良子との仲も急速に接近していった。トミもそれを公認していた。良子は亡き父と同じ道を歩むべく、女子医専に入学していた。経営も順調で、トミは良子と安東との結婚を望むようになるが、1947年の暮れ、政府が朝鮮人学校の閉鎖接収命令を出したことに対する抗議デモが神戸市で行われた。安東の母も民族衣装を着て参加し、そのまま安東が経営するクラブへ来たのだった。トミは安東から九州の豪農の三男と聞かされていたのに、実際は朝鮮人だったことを知り激怒。トミは尼崎へ転居。クラブは閉鎖された。安東は以後、職を転々とするようになる。戦前の教育を受けていたトミは、朝鮮人に対する偏見と蔑視を植え付けられていた。しかし良子は違った。既に体を許した関係である安東と、トミの目を隠れて付き合い続けた。そしてついに同棲にまで至ったのだが、今まで優しかった安東の本性を知り、さらに経済的破綻も重なって4ヶ月でその関係は崩壊した。しかし安東は土地と家を売り払い、その金を持って良子を無理矢理連れて兄の家に転がり込んだ。しかし良子は朝鮮人家庭の生活になじむことが出来ず、すぐに逃げてしまった。なお安東は1953年5月28日、不動産売買に絡んだ傷害事件を起こして罰金3000円の刑を言い渡されている。

良子に去られた安東は手持ちの金で株を始めるがすぐに底をつき、しかも兄の預金にまで手を出す始末。安東は再び犯罪に手を染めることとした。

安東は「殿川一三」の名刺を持ち、1955年1月から調査を始め、東海銀行大阪支店に狙いを定めた。3月28日、強盗に使うタクシーを奪おうと、芦屋で1台の車を拾った。人影のないところで安東は拳銃を突きつけた。車の強奪は上手くいくかに見えたが、運転手(44)が途中で逃げ出したため、安東は思わず引鉄に手をかけ、運転手の男性は死亡した。安東は車に乗って銀行に向かったが、近くの派出所に警官が二人いたため、断念した。

8月29日昼、安東は銀行近くの派出所に、落とし物を拾ったと偽って届け出て、隙を見せたときに拳銃を突きつけた。しかし抵抗されたため、射殺した。そして東海銀行大阪支店を襲い、現金500万円を強奪。拳銃を持ったまま、取り巻く群衆の中を悠々と歩いて逃げ出した。通りに出て強引に車を止め、乗り込んで逃走。しかしノロノロと運転する運転手に激昂し、脅そうと床に銃口を向けて引鉄をひいたが、誤って自分の足首をかすめてしまった。後ろを見ると、タクシーが自分たちを追いかけている。そこに乗っていたのは襲われた銀行の店員と、たまたま犯人を追っていた男性であった。二人は更に途中で派出所の警官を二人拾い、追いかけてきた。

大淀区で安東の乗っている車はエンストを起こした。しかし安東は、エンジンキーがオフになっていることを見抜き、オンにしようとしたとき、運転手が抵抗してきた。安東は運転手を射殺し、金を持って逃走した。その後、スクーター、小型四輪と止めさせて逃走。小型四輪の荷台から曾根崎書院の巡査(27)に向かって引鉄を引き、重傷を負わせた。そして東淀川区にある工場の物置に隠れた。午後5時30分頃、物置に来た工場主が安東を見つけ、拳銃を向けられたが、隙を見て襲いかかり掴まえ、大声で警官を呼んだ。安東はついに逮捕された。

大阪府警捜査一課の森山格三郎が取り調べに当たった。安東は神戸、京都、芦屋の事件を自ら告白。しかし名前は偽ったままで、あとはまともなことを喋ろうともしなかった。マスコミからの要請による記者会見でも、安東は傍若無人に振る舞った。



安東こと朴は、強盗殺人3件、同未遂2件、強盗1件、窃盗2件で起訴された。初公判は1955年10月8日に大阪地裁で開かれた。公判は満席となり、法廷には入れない群衆が窓によじ登って退去を命じられるほどだった。その中には十代の若い女性がかなり混じっていた。捜査本部や検察庁へ犯人当てのファンレターが数十通舞い込み、なかには恋文まがいの物もあった。
1956年10月22日、大阪地裁は、1951年1月から翌年2月に至る強盗殺人未遂、窃盗等5件について懲役15年を、1955年3月から8月に至る強盗殺人3件および同未遂1件について死刑判決を言い渡した。朴は1952年2月に神戸灘簡易裁で罰金刑を受けているため、刑が二つに区分された。

運転手の妻はクリスチャンであり、朴に向かって生き永らえて懺悔の生活を送ってほしい、と控訴を勧めた。当初は一審判決を受け容れるつもりだった朴は、控訴した。

控訴審判決の9日前である1957年9月15日、朴夏竜は持病の肺結核が基で、心臓内膜炎、全身リュウマチなどを併発して、大阪拘置所内病院の一室で死亡した。29歳6ヶ月だった。



本書は1955年に発生した在日朝鮮人による東海銀行大阪支店襲撃事件をモデルとしている。事件の発生、顛末や犯人、捜査の動きなど、時間的、空間的に事実通りに書いているが、主要登場人物は仮名にし、内面的にはかなりの造形を試みている。ベップ出版より、1983年1月14日に書き下ろしで刊行された。

筆者である福田洋はあとがきで「私たちは、わが国を自由で平等で民主的な文化国家だと自負している。だが、はたして、それはほんものなのか? 戦後三十数年、いまだに私たちの心の底には、理由なき差別と偏見の亡霊が棲みついているのではないか? そして、本篇の主人公は、そんな私たちの社会にふさわしい犯罪者として出現したように思えてならない」と記載している。また、先に三菱銀行事件を扱った(『野獣の刺青(タットゥー)』)私としては、どうしても書きたい素材だったとも書いている。

本書の主眼は、在日朝鮮人に対する差別、偏見と、それに対する怒りである。2013年の今ですら、互いに罵り合っている現状である。まだまだ戦争の影響が濃かった1955年なら、差別がより酷かったものと思われる。だからこそ主人公である朴は、在日朝鮮人であることを隠そうとする。そして在日朝鮮人であることが婚約相手にばれ、逃げられたときの朴の気持ちはいかほどだっただろう。成績優秀で大学を卒業しても、就職するところもない。帰りたくとも帰れず、日本で生きることしか選べない彼らにとって、その歩んできた道がどれほど大変だったかは、私たちには想像することもできない。

とはいえ、日本で虐げられてきたからといって、日本で罪を犯していいということは有り得ない。犯した罪は罪として裁かれるのは当然である。しかし朴は、控訴審途中で病死してしまった。朴の思いはいったいどこへ行ってしまったんだろう。そこまでは福田洋も追求することができなかった。