平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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読売新聞大阪社会部『逆転無罪―少年はなぜ罪に陥れられたか』(講談社文庫)

逆転無罪―少年はなぜ罪に陥れられたか (講談社文庫)

逆転無罪―少年はなぜ罪に陥れられたか (講談社文庫)



1979年1月21日深夜12時頃、大阪府貝塚市で二色浜駅から帰宅途中の女性(当時27)が畑のビニールハウス内にて強姦され、絞殺された。女性は妊娠三〜四ヶ月だった。

警察の捜査とは別に、女性の内縁の夫(当時31)は自ら捜査。23日昼、顔見知りの少年(当時18)と出会ったとき、いつもと違い目を合わせようとしなかったので、何かあると思い、2日後、少年を近くの海岸まで連れ込み、殴りながら尋問。怯えた少年は「仲間4人とビニールハウスへ行き、殺害した」と“自供”。夫は告白メモに血判させ、捜査本部に提出した。27日、捜査本部は5人を逮捕した。21歳の男性を除き、残り4人はいずれも18歳で、地元では素行不良グループと見られていた。読売新聞を含む各紙は、夫のことを“悲しいヒーロー”に仕立て上げていた。

五人はいずれも大阪地裁堺支部で起訴。1982年12月24日、当時21歳の男性に懲役18年(求刑懲役20年)、残り4人に懲役10年(求刑懲役12年)の判決が言い渡された。裁判長は被告らがアリバイ工作をしていたと批判していた。4人は控訴したが、最初に“自供”した少年は控訴せず確定した。



どこにでもある……といってしまっては被害者に申し訳ないが、珍しいとはいえない強姦殺人事件である。内縁の夫が犯人を見つけたという部分はちょっと珍しいかもしれない。ここに書かれてある内容を見ても、特に疑問を抱かせるような部分はない。しかし、真実は違ったのである。



一通の封書が読売新聞大阪本社社会部を経て、司法記者クラブ員の元に届いた。差出人は、被告である元少年の一人。彼は無実であると訴える。逮捕されてから2週間、殴る蹴るの拷問を受け続け、そんな恐怖から逃れたいと調書に指印してしまった。アリバイはあるし、血液型の鑑定もおかしい。どうか、調査をやり直してほしい。そう切実に訴えてきた手紙であった。

新聞社に無実を訴える手紙が届くのはよくあることらしい。ただそのほとんどは、裏付け調査をすればすぐに有罪がばれるようなものばかりだという。三人の記者は今回もそのような手紙の一つだと思ったが、記者の勘が働いたのか、再調査を始めることになる。

一審当初から、検察側と弁護側は激しい応酬を続けていた。五人は罪状認否のときから犯行を否認。五人の供述は合わせてみると時刻、場所、方法などについて矛盾がある。

アリバイ工作を頼まれたと捜査段階で供述していた友人は、法廷でアリバイそのものを積極的に証言したわけではないが、被告にアリバイ工作を頼まれたことは否定した。タクシーの記録にもアリバイ通りの人数が記録されている。しかもアリバイがあると捜査本部に出頭した友人は証拠隠滅容疑で逮捕してしまったため、友人は自分の意志に反する供述をしてしまった。他の友人も逮捕を恐れ、被告に不利な供述をした可能性が高い。

五人は被害者を輪姦したとあったが、女性に残された精液からはA型しか検出されていない。五人のうちA型は一人だけでしかも非分泌型だから精液から血液型は判定できない。二人はB型、二人はAB型である。内縁の夫はO型だった。つまりA型である犯人は、5人の中には存在しないのである。

また盗まれたとされる財布は発見されていない。現場に残された指紋、足跡等に五人と一致するものはない。

五人の着衣、履物から現場付近の土壌と一致する土砂が発見されていない。当時履いていたとされる草履に付着していた砂は、現場付近の土壌と異なるという鑑定書が出ていた。



三人の新聞記者は公判記録を読み、被告たちが無罪ではないかと思った。しかし1人が刑を受け入れたのはなぜか。疑問に思いながら、控訴審の弁護士を訪ねる。4人の国選弁護人は、いずれも無罪を確信していた。三人は取材をし直すこととした。

記者は四人に手紙を書いた。いずれも拷問され“自白”したことが書かれてあった。ある元少年からの返事は便箋49枚に及び、そこには取り調べにおける警察の拷問の様子が克明に書き記されていた。

弁護団は事件当時一緒にいたという友人を訪ねたが、友人は証言を断った。警察は一緒にいたと言っても「お前も共犯だ」と取り合わず、しかも乱暴を加えたとのことだった。



1984年6月19日読売新聞朝刊。一面と社会面のトップ記事は、これまでの取材結果をまとめたものだった。しかし他のマスコミは、冷ややかな目で見るだけであった。



記者らの捜索で、弁護士は姿を隠していたアリバイ証人に会うことができた。彼は警察でアリバイがあると二日間言い続けてきたが、警察は取り合わず彼を拘留した。妊娠中の妻とも面会できず、警察は供述を変えないといつまでも拘留し続けると脅したという。仕方なく彼はアリバイ工作を頼まれたという調書を書かされた。しかも釈放時、警察は調書と違うことをしゃべったら指名手配し、懲役・罰金刑だ。証拠隠滅で逮捕する、と脅したのだった。彼は二審で法廷に立ち、一審の供述をひっくり返した。

他の友人も、弁護士の説得に応じ、彼らのアリバイを証言した。



記者らは一人有罪を受け入れた元少年に面会する。彼は小さい頃の高熱で知恵の発達が遅れ、事件当時でも平仮名しか書けなかった。気が弱く、人に利用されやすい性格だった。彼は内縁の夫に「刃物を胸に突き付けられ『やったと言わんと殺すぞ』と脅された」のであった。しかし母代わりの祖母に「偉い人たちはわかってくれん」と罪に服することを勧めたため、不承不承ながらも控訴を取りやめたのであった。



控訴審は続き、捜査時の刑事や担当検事も証言台に立ったが、それはいずれも“自供”の信憑性を疑わせるものばかりであった。

最終弁論では、弁論要旨が裁判所に提出されたのみであった。弁護側は明々白々の無実であることを主張。検察側が提出した32枚の弁論要旨には、アリバイの否定のみであり、血液型や指紋、足跡などの不一致については一言も反論がなかった。

1986年1月30日、大阪高裁は一審判決を破棄し、無罪判決を言い渡した。逮捕から7年、4人はようやく自由の身になった。

大阪高検は上告を断念。判決は確定した。4人は2561日間にわたって身柄を拘束された代償として4人の合計7375万6800円の刑事補償を請求。大阪高裁は3月18日、請求通りに認める決定をした。

判決から5ヶ月後の6月23日、有罪を受け入れた元少年は再審請求を申し立てる。1988年6月23日、元少年は仮出所したが、最愛の祖母はその1ヶ月前に亡くなっていた。

1988年7月19日、再審開始が決定。1989年3月2日、大阪地裁堺支部は無罪を言い渡した。裁判長は元少年に、異例ともいえる謝罪の言葉をかけた。





事件の概要を長々と書いた。冤罪というものの恐ろしさ、そして冤罪はいつでも起こりうるということを知ってもらいたく、あえてここまで書いてみた。

自白偏重、冤罪は過去のもの。そう言われることがある。しかし現実は違う。2005年になった今でも、無罪を叫ぶ被告は多い。もちろん、実際に罪を犯していながら無罪を叫ぶ被告の方が圧倒的に多いだろう。しかし、彼らの中に無罪である被告がいたとしても不思議ではない。「捜査段階での供述は真実味がある」、そう告げる裁判官の何と多いことか。捜査段階でどのような尋問が行われていたのか、確かめるものはいない。確かめる方法は何もない。

記者の一人は発端となった手紙を受け取ったとき、こう呟いている。

「冤罪の多くは、旧刑事訴訟法から今の刑事訴訟法に移った昭和二十年代の事件だ。“自白は証拠の王”といった時代は終わっている。科学捜査の進歩も目覚ましい。大阪府警捜査一課はこれまで凶悪な難事件を解決した実績も十分だ。捜査力の低い地方の警察事件ならともかく、大阪府警では考えにくい話だなあ」

しかし実際は違った。拷問に等しい尋問で無理矢理自白をもぎ取り、証拠らしい証拠もなく、逆に無罪を証明する証拠を無視し、検察は起訴した。しかも一審では、その証拠を全く無視し、有罪判決を下している。警察・検察を妄信的に信用する裁判官がいるようでは、裁判の意味がない。

もし新聞に本件が取り上げられなかったら、注目を浴びず、裁判は有罪への道を辿ったのではないだろうか。

青春の貴重な時間である2561日を獄中で過ごした彼ら。その傷跡は癒えることがないだろう。刑事補償など雀の涙でしかない。彼らが獄中にいる間、彼らだけではなく彼らの家族もまたいわれのない中傷を“世間”から浴びせ続けられてきたのだから。事実、刑事補償で受け取った金額のほとんどは、今までの借金返済に消えてしまったと聞く。会社を追われ、学校で虐められ、世間から爪弾きにされてきた家族たちもまた被害者なのである。

そして無罪判決が出たことで傷つく人たちもいる。被害者の遺族である。彼らは犯人が捕まり、罰せられることで、被害者が亡くなった悲しみをわずかながら癒してきた。それが無罪判決。憎む相手がいなくなったいま、この怒りをどこにぶつければいいのか。

誤った捜査を行った警察、誤った起訴をした検察、誤った判決を下した裁判官はいずれも口を閉ざしたままである。彼らは何ら反省しない。過ちを認めようとすらしない。



最後に、本書に載っていたある冤罪事件を紹介する。あまりにも馬鹿馬鹿しい内容だが、これもまた事実なのだ。



1979年8月22日夜、奈良県の鉄工所の事務室が荒らされ、金庫から5千円、自動販売機から2万円が盗まれた。金庫内の小引出の背に付いていた指紋から道交法違反の前歴がある会社員(当時25)が逮捕された。会社員はかつて勤めていた会社で金庫を取り扱ったことがあったから、そのときに付いたものである、と暗証数字も言って犯行を否認したが、警察は取り合わなかった。金額が25000円とわずかだったから、すぐに保釈され、身の証を立てることができるだろうと“自供”した。もっともしていないことを話すのだから、捜査員の顔色をうかがい、捜査員の誘導通りに“自供”のであった。その後恐ろしくなり、再び無実を訴えたが検察側は取り上げずに起訴した。弁護士は弁償して執行猶予を勝ち取った方がいいと、鉄工所を訪れたら、なんと「金庫破りの犯人は滋賀県警で捕まっている」という話だった。滋賀県警に問い合わせたら、常習窃盗犯が捕まって自供、滋賀県警も裏付け捜査を終えていたばかりだった。弁護士が金庫の販売ルートを調べたら、その金庫は間違いなく会社員がかつて務めていたもので取り扱っていたものであり、指紋はそのときに付いたものであった。公判で検察側は求刑放棄、1980年4月2日の判決で無罪は確定した。



本書は1990年7月、同タイトルで講談社から出版された単行本の文庫化である。