平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

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桃野雑派『老虎残夢』(講談社)

 私は愛されていたのだろうか? 問うべき師が息絶えたのは、圧倒的な密室だった。碧い目をした武術の達人梁泰隆。その弟子で、決して癒えぬ傷をもつ蒼紫苑。料理上手な泰隆の養女梁恋華。三人慎ましく暮らしていければ、幸せだったのに。雪の降る夜、その平穏な暮らしは打ち破られた。「館」×「孤島」×「特殊設定」×「百合」! 乱歩賞の逆襲が始まった!(帯より引用)
 2021年、第67回江戸川乱歩賞受賞作。加筆修正のうえ、2021年9月刊行。

 

 2021年の乱歩賞は、本作と伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』とのダブル受賞。しかし、本作は9月発売で、もう一方は10月発売というのは珍しい。選評を読むとどれも一長一短だったらしく、修正の早い順に出したというところだろう。
 時代は「采石磯の戦い」が40年ほど前とのことなので、1201年頃の南宋。舞台は首都である杭州の臨安に近い小さな島である、八仙島。登場人物は、武術の達人、梁泰隆。捨てたられたところを拾われ、弟子となった23歳の蒼紫苑。かつて大怪我を負ったため、外功が使えない。そして養女である17歳の梁恋華。紫苑と恋華は恋人の関係にあるが、掟で許されない恋である。
 蒼紫苑に呼ばれてきた三人の客。紫苑はその中の一人だけに奥義を授けるという。海幇の幇主で『烈風神海』こと蔡文和。終曲飯店という店を手広くやっている『紫電仙姑』こと楽祥纏。浄土教の僧侶で三千人の門下がいる『弧月無僧』こと為問。屋敷で宴会を行った後、泰隆は湖の中央に建っている道場の八仙楼へ術で帰り、残りは屋敷で眠りを取った。しかし翌朝、泰隆は毒を飲まされたうえ、暗器の匕首で腹を刺されて殺されていた。しかし内攻の達人である泰隆に毒は聞かないはず。そして楼へ行くための船は楼閣の桟橋にかかっていた。屋敷から湖までの雪が積もった道は、朝食を運ぼうとした恋華の往復の足跡しかなかった。5人は楼閣で密室殺人の謎に迫る。
 南宋の時代を舞台とした武侠小説本格ミステリを組み合わせるというのは、秋梨惟喬の「もろこし」シリーズがある(といっても読んだことはない)が、乱歩賞では初めて。と言われても、そもそも武侠小説そのものを読んだことがほとんどないため、舞台を把握するのに戸惑ったことは事実。外功や内功ってこんな特殊な設定になっているのだろうかと、不思議に思った。ただ、背景や人物は丁寧に、しかしリズミカルに書かれており、読んでいればわかるようになっているのはうまいと思った。
 前半を読んでいると、作者は楽しんで書いているのだろうな、ということがわかるくらい、筆がのっている。過去の人間関係も踏まえた会話の軽妙なやり取りや、所々で挟まれる戦闘シーンは読んでいて実に面白い。紫苑と恋華の関係はもうちょっと物語の謎に絡めてほしかったかな。ただ後半になればなるほど、テンポが悪くなって作品のテンションもどんどん下がっていく。「奥義」の正体が面白いのに、謎解きそのものが面白くないというのが致命的。加筆修正を行ううちに、作品そのものの流れがどんどん悪くなっていったのではないだろうか。
 帯の「館」×「孤島」×「特殊設定」×「百合」は、逆に書かなかった方がよかったと思う。少なくともこの言葉から思い浮かべるミステリの印象とは、全然異なっている。編集者ももう少し考えて書けばいいのにと思ってしまう。
 すごい悪い書き方なんだが、昔ネット上でたくさんあった小説を思い出した。設定は面白くて作者も最初は勢いで書いているのだが、話がどんどん進むに連れて作者の筆が重くなり、結末がつけられずにいつの間にか絶筆状態になっている。本作は結末をつけることができたが、テンポの悪さは致命的。本格ミステリのような論理性を求められるジャンルは向いていないと思う。ゴールだけを決めて、あとは筆の勢いに任せて書いた方が面白いものができるのではないだろうか。

三好徹『海の沈黙』(集英社文庫)

 横浜の野毛山で堀本美知子の絞殺体が発見された。容疑者として小学校の同級生だった林楊生が逮捕され、彼は犯行を認めたが動機は彼の自供でも明らかにされなかった。国籍の異なる若者の苦悩に満ちた反省と、彼女をめぐる人間模様がと解き明かされていく。社会派推理の第一人者が描いた異色サスペンス。(粗筋紹介より引用)
 1962年、三一書房より単行本刊行。1977年8月、集英社文庫化。

 

 Wikipediaの「小松川事件」の事件を基にした創作のところに本作が載っていた。そんな小説あったっけと思って調べたら、岩崎稔、大川正彦、中野敏男他『継続する植民地主義 ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社)にその旨が載っていた。ではどんな小説なのか、と気になって読んでみた。
 読み終わって考えてみたのだが、いったい何を言いたかった小説なのかがわからない。
 前半部分は林楊生と堀本美知子のやり取りが中心。社会の底辺で鬱屈している林と、富裕な家庭に生まれながらどこか孤独な美知子との対比と共通点を描いている。しかし、なぜ林が美知子を殺すに至ったのかがわからない。「異邦人」は二人に突き刺さるものがあったのだろうが、それが死につながるものなのかが、私にはどうしてもつかみ取れなかった。
 それからは警察の捜査と林の取り調べ、そして林の裁判と続く。半ば自滅に近いような犯人自身からの電話。それは社会の底辺にいた人物の、社会から認められたい欲求からの行動だったのだろうか。その動機については何も語られていない。そして取り調べにおける警察と犯人の「事実認定」の乖離。強盗強姦目的だったと詰め寄る警察と、事実を何もかも話しているのにわかってもらえない林。それは林という人物の人生そのものであったのかもしれない。やりたいこと、求めたいことが認められず、国籍を隠さなければ就職すらできない林楊生。それは警察という場所、そして裁判という「真実を明らかにする場所」でも、自らの真実すら聞いてもらえない、わかってもらえないことを証明していたのかもしれない。
 後半は死刑判決が出た後の林とその周辺である。林は裁判所で死刑判決を言い渡された後、一切何も話さなくなった。控訴せず刑が確定し、そして舞台は三年後、M刑務所へ移る。具体的に書いていないがこれは「仙台送り」と呼ばれ、当時の東京拘置所は死刑執行の設備がなかったことから、執行の時は仙台刑務所へ送られていた。林は十六号館房に収容され、壁を背にしたまま無言の行を続け、自分以外の誰も受け入れようとしない姿勢を続けていた。教誨師や所長が話しかけても、それは同様だった。そして一年後、執行命令書が届く。何もしゃべらない林に、看守たちは首をひねる。そして死刑執行という行為に、様々な思いをぶつける。所長の妻は、子供が「浅右衛門の子ども」と罵られたと話し、今の仕事をやめてほしいと訴える。そして執行当日。看守たちの様々な思いが渦巻く中、林は何も語らず執行される。ところが記者が訪れ、強姦の事実がなかったことを伝え、刑務所内は動揺する。しかし法務省はそんな事実はないと伝え、裁判や死刑制度はこれからも続く。
 この辺りを読むと、死刑という刑に携わる刑務所の中の人々の思いを訴えたかったのかと言いたくなる。林の死刑執行を通し、死刑という刑の矛盾や虚しさを覚えつつ、執行に携わらなければならない悲哀も感じる(もっともそこに、被害者や遺族などの思い、社会秩序などは全く考慮されていないが)。そして林は、何も話さないことで自分の世界だけを守り通そうとしていたのかもしれない。
 先も書いたが、全体を通して読んでみても、作者が何を言いたかったのかがわからない。社会や警察・裁判、それに死刑などに対する矛盾点を、林楊生という人物を通して浮き彫りにしたかったのか。それとも林楊生いう人物そのものを矛盾にあふれた社会の中で浮き彫りにしたかったのか。どことなくちぐはぐで、どことなくもやもやしたまま読み終わってしまったというのが正直なところである。
 この小説、結構誤りと思われる点が多いのだが、一番大きな誤りは、林楊生が事件当時17歳だったのに、死刑判決を受けていること。三好徹は新聞記者だったのだから、少年法ぐらい知っていたと思うのだが。

アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』上下(創元推理文庫)

 『カササギ殺人事件』から2年。クレタ島でホテルを経営する元編集者のわたしを、英国から裕福な夫妻が訪ねてくる。彼らが所有するホテルで8年前に起きた殺人事件の真相をある本で見つけた──そう連絡してきた直後に娘が失踪したというのだ。その本とは名探偵<アティカス・ピュント>シリーズの『愚行の代償』。かつてわたしが編集したミステリだった……。巨匠クリスティへの完璧なオマージュ作品×英国のホテルで起きた殺人事件! 『カササギ殺人事件』の続編にして、至高の犯人当てミステリ登場!(上巻粗筋紹介より引用)
 “すぐ目の前にあって──わたしをまっすぐ見つめかえしていたの” 名探偵<アティカス・ピュント>シリーズの『愚行の代償』を読んだ女性は、ある殺人事件の真相についてそう言い残し、姿を消した。『愚行の代償』の舞台は1953年の英国の村、事件はホテルを経営するかつての人気女優の殺人。誰もが怪しい事件に挑むピュントが明かす、驚きの真実とは……。ピースが次々と組み合わさり、意外な真相が浮かびあがる──そんなミステリの醍醐味を二回も味わえる、ミステリ界のトップランナーによる傑作!(下巻粗筋紹介より引用)
 2020年、イギリスで発表。2021年9月、邦訳刊行。

 

 三年連続ミステリランキング四冠達成のホロヴィッツの新刊は、まさかの『カササギ殺人事件』の続編。しかも過去にさかのぼるのではなく、2年後の話である。
 8年前にイギリスの高級ホテル「ブランロウ・ホール」で、ホテルのオーナー、ローレンス・トレハーンの次女、センリーがエイデン・マクニールと結婚して式が開かれる前日、宿泊客のフランク・パリスが部屋で殺害され、式の後に死体が発見された。財布が盗まれ、それが従業員でルーマニア人のステファン・コドレスクの部屋から見つかったことから、ステファンが捕まり、無実を訴えるも、最低25年以上の終身刑の判決を受けた。しかし先日、センリーはアラン・コンウェイが書いた名探偵<アティカス・ピュント>シリーズの第三作『愚行の代償』を読んで事件の真相がわかったと両親に連絡するも、その内容を告げる前に夫と子供を残したまま失踪した。

『愚行の代償』はホテル「ヨルガオ館」を経営する人気女優の殺人事件を扱ったものだったが、ホテルや登場人物の一部のモデルは「ブランロウ・ホール」だった。当時編集者だったスーザン・ライランドに、事件の真相を探してほしいと、トレハーン夫婦は依頼する。クレタ島アンドレアス・パタキスと経営するホテルが赤字だったことから、報酬に目がくらみ、スーザンはイギリスに渡る。
 本作では、まずスーザンが次女の失踪と当時の殺人事件についての捜査を始め、事件の概要や人間関係が分かったところで、スーザンが『愚行の代償』を読み始める。上巻の後半から下巻にかけ、『愚行の代償』が丸々収録されている、という展開だ。
 『カササギ殺人事件』は現在の時点の事件の方は面白かったが、作中作「カササギ殺人事件」の方が今一つで、ちょっと残念だったのだが、本作は作中作『愚行の代償』が面白い。クリスティのオマージュとなっており、フーダニットに酔わせてくれる作品に仕上がっている。さらに、現在の事件とどこにリンクするのかという謎解きも加わり、二つの謎解きを作中作で楽しめるのだ。それにどの人物がどの人物のモデルになっているかといった楽しみも加わる。現在の事件の構造がわかってから作中作を読むというのは、実に楽しい。前作と違う点はそこだろうか。
 現在の事件の方もフーダニットを楽しめる作品だ。ただそれ以上に楽しめるのは、アラン・コンウェイの意地悪さだろうか。どこに悪意が潜まれているのか、嫌な気分になりながらも楽しんでしまうのだから、作者の腕に脱帽してしまう。最後に訪れる一気呵成の謎解きばかりでなく、スーザンの周囲の人物などもきちんと描かれていてドラマがあるし、言うことなしである。
 個人的には今までのホロヴィッツで一番楽しめました。今年もトップを取るんじゃないかな。それにしてもアランって、全作に何らかの悪意を画しているのか? 残り七冊を楽しみに待ってしまうじゃないか。次のスーザンシリーズの作品は、アティカス・ピュントのテレビドラマが舞台なのかもしれない。